因果をくらまさず Trilingual  Chinese English List of the MISC  Database Main

 

不落不昧両采一賽

 百丈懐海(749-814)と言う中国唐代の有名な禅僧にある老人が語った。自分は、釈尊以前の迦葉仏の時代に「修行を積んだものも因果に落ちるか」と問われ、「因果に落ちず」と答えたために、五百生の野孤身に堕したものである。一転語をもって野孤身から解脱させてもらいたい。百丈和尚はこれを聞き「因果を昧まさず」と答えた。老人はこの一言に大悟し、めでたく野孤身を脱することができた。百丈和尚は、その日裏山で一匹の狐の死骸を見つけ、手厚く葬った。

 この話を聞いた百丈和尚の高弟黄蘗は、「もし一転語を誤ったために五百生の野孤身に堕したなら、一言も誤らなかったらどうだったろう」と質問した。百丈和尚は「こっちへ来い。教えてやろう」と答えた。言われたとおり百丈和尚に近づいた黄蘗はいきなり和尚に一掌を与えた。すると百丈和尚は「達磨の髭は赤いと聞いていたが、赤髭の達磨はこんなところにいた」と賞賛したと言う。(無門関第二則百丈野狐) 

 

贖罪と救いは一体

人は一日に何度過ちを犯すことか。一年365日、人生50年としても、一生の間に犯す過ちは数え切れない。ましてや祖父母の時代から積み重ねられた罪業の因果を断ち切ることができないならとても極楽往生など望めない。このことは個人にも国にも当てはまりそうだ。

イエスもマタイ伝23章において「こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶだろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みなこの時代に及ぶだろう」(Mat23:35-36)と説いている。

ここでイエスはパリサイ派や当時の他の宗教教指導者らを例に掲げているが、その実、血に塗られた歴史は、イエスを含むイスラエルの民全てが負うた宿命と言える。イエスは自ら十字架につくことにより、罪の贖いは必ずなさねばならないこと、また罪の贖いと救いは一体であることを身をもって示されたものと見られる。

 

ワイツゼッカーの終戦記念演説

戦後40年を経た1985年、西ドイツのワイツゼッカー当時大統領は終戦記念日の演説の中で、「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目である。残虐行為を思いおこすことをこばむものは、新たな感染症のリスクにさらされがちである」と述べるとともに、「若い世代には、過去におこったことの責任はないが、その後の歴史の中で生じたことにたいしては、責任がある」と語っている。

 

靖国は贖罪誓いの場

人は一生の間に善行もなせば、悪行も重ねる。栄光の時もあれば、一敗地にまみれる時もある。国もまた同様であり、その両方を学んで初めて国を靖じることができるのではなかろうか。靖国神社を贖罪と平和の誓いを新たにする場とするのであれば、A級戦犯もB級戦犯も、戦争に関わったもの全てをお祭りすべきだろう。また贖罪と救いが一体なことを日本人が身をもって示すなら、世界に福音を発信することにもつながるのではないだろうか。(回光庵返照居士:2005/09/27)