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書評:聖霊のバプテスマ(ただ足るを知る)

アンティオキア教会の指導者らが、主を礼拝し、断食していると、聖霊が、「さあ、わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために、バルナバとサウロ(パウロ)を選び出しなさい」と告げた。そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使徒13:1-3)
キプロス宣教

飢饉に見舞われたエルサレム教会に義援金を届ける役目を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れてアンティオキアに戻たバルナバとサウロは、こうして三人連れだって、宣教旅行に旅立った。
使徒行伝の著者ルカは、聖霊の言葉(使徒13:2)を借りて、この宣教旅行が前もって周到に準備されていたことを示唆している。
三人は、先ずセレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で説教をしながらキプロス島を東から西に横断し、ローマ総督府が存在するパフォスに赴いた。
総督セルギオ・パウロ

当時、パフォマス総督府の執政官はセルギオ・パウロが務めていた。この人物は、アナトリア半島中部ピシディア省アンティオキア市の要職を務めたローマ官員ルキウス・セルギウス・パウルスの父親だったようだ。後者はローマ市街や、ローマ第6軍団フェッラータ担当護民官および財務官を兼務する4人の執政官の一人だった。
ちなみにピシディア省のアンティオキアは、アンティオキア教会が存在したシリアのアンティオキアとは異なる。セレウコス朝を開いたセレウコス一世ニカトールは60近い都市を建設したが、その内の16都市に父の名に因んでアンティオキアと命名した。
またセルギオの名が刻まれたクラディウス帝時代の境界標識が1887年にローマで発見されており、セルギオ・パウロは、西暦47年にはローマ市内を流れるテベレ川の堤と水路の管理官を務めていたようだ。

と言うことから、パフォマス総督府の執政官だったセルギオ・パウロは、どうやらローマの元老院議員クラスの執政官で、イタリア南部出身で騎士階級のポンテオ・ピラトなどより格が上だった可能性がある。またセルギウス・パウルス一族は、最終的にイタリアに帰化したが、元々ピシディア省アンティオキアの出身だった可能性がある。
英語版ウィキペディアによると、パウロがキプロス島に赴いた時期は一般に西暦40年代の前半と見られており、一部の学者はそれよりも更に早い時期と見ている。このためセルギオは、3年間キプロスの執政官を務めた後、ローマに戻りテベレ川の管理者に任命された可能性があり、またパウロがローマ信徒への手紙で挨拶を送った友人の中にセルギオの名が見えないことから、その時期には既に逝去したが、別の任地に赴いていた可能性がある。
魔術師エルマ

セルギオ・パウロには、バル・イエス、別名エルマと言うユダヤ人学者の側近がいた。エルマとはアラビア語で『賢者』の意、翻訳すればイエスの誕生を祝福した東方三博士(the three magi)と同じ博士(マギの単数形マゴス)だが、なぜか口語訳使徒行伝は魔術師と注釈をつけている。またギリシア語のバル・イエスを、ヘブライ語にすればバル・ヨシュアで、イエスの息子もしくはヨシュアの息子の意。ヨシュアは、エジプトを脱出したユダヤ人を最終的にカナンの地に導いたモーセの後継者である。
地方総督がバルナバとサウロを招き、話を聞こうとした際、同席したエルマは、総督を信仰から遠ざけようと、会談の妨害を試みた。そこでサウロがにらみつけ「お前は目が見えなくなり、時が来るまで日の光を見ないだろう」と呪文を唱えると、たちまち目が見えなくなった。地方総督は、この光景を目にして、信仰に入ったと言う。(使徒13:6-12)
使徒パウロの誕生

バルナバおよびサウロと面談したセルギオ・パウロが、直ちに入信したのも驚きだが、より興味深いことは、この後、使徒行伝はサウロと言う呼称をパウロに改めただけでなく、それまでずっとバルナバを先に、サウロを後に記してきた記述方式を、パウロを先に、バルナバを後に改め、この時を境に宣教活動の主役がバルナバからパウロに入れ替わったことを明確にしている。そればかりか、エルサレムにおける第一回使徒会議で、パウロとバルナバに異邦人を対象に宣教を行う使徒の地位が認められるはるか以前の、この時から、早くもパウロとバルナバに使徒の肩書きをつけている。
使徒行伝は、なぜサウロと言うヘブライ語名を用いることを止め、パウロと言うギリシア語名を用いるようになったか、何も説明をしていないが、セルギオ・パウロとの出会いが、その疑問を解く鍵になることを強く示唆している。

魔術師エルマの挿話は、この地方総督が、以前からユダヤ人やユダヤ教に深い関心を寄せ、エルマを宗教問題の顧問にしていたことを窺わせるが、サウロがエルマに呪文をかけ、目を見えなくしたのを見て、ローマの地方総督が発足間もないアンティオキア教会やエルサレム教会の信徒に加わったと言うことはあり得ない。
第13章冒頭の「さあ、わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために、バルナバとサウロを選び出しなさい」と言う聖霊のお告げに示されているように、地方総督との会談は、遙か以前から入念に準備されていたものと見られる。あるいは、ローマ帝国領内ばかりか、域外にまでシナゴーグのネットワークを備えたユダヤ教徒に強い関心を抱くセルギオ・パウロの方が、むしろバルナバやサウロの宣教活動に支援を申し出た可能性がある。テルアビブ大学のシュロモー・サンド歴史学教授によれば、ユダヤ教徒は、最盛期にはローマ帝国総人口の7~8%を占めたと言う。一方、サウロは、将来のローマにおける布教に備え、セルギオ・パウロの保証の下に、あるいは養子縁組までしてローマの市民権を手に入れたのではなかろうか。
ピシディア省のアンティオキアに直行

パフォマスを出港し、アナトリア半島南部パンフィリア州ペルゲに上陸したパウロ一行は、そこから北上し、セルギオ・パウロの息子やその家族が拠点にしていたと見られるピシディア省アンティオキアに直行した。しかし、マルコは、なぜか、パフォマスで二人と別れ、エルサレムに戻ってしまった。
パウロとバルナバは、アンティオキアの他、隣接するイコニオンや、リカオニア州のリストラとデルベ等の町の会堂を巡り、説教した。セルギオ一族の後援やパウロに改名した効果もあってか、二人の布教活動は、当初、極めて順調で、多くのユダヤ人とギリシア人がこぞって入信したため、教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せたと言う。

しかし、パウロもバルナバも、これらの信徒らが信じる主が、ヤハウェ(エホバ)であるか、ゼウスであるかは、深く問わなかったようだ。そのためか、リストラの市民は、バルナバを全能の神ゼウス、パウロをその伝令ヘルメスと呼び、神殿の祭司が、城塞の門に雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒に二人に対していけにえを献げようとした。二人は慌てて服を裂いて群衆の中へ飛び込み、いけにえを献げるのを、やっとやめさせたと言う(使徒14:11-18)。このエピソードは、群衆がパウロよりバルナバを重く見ていたことを示唆しており、興味深い。
しかし、何れの町でも暫くするとユダヤ人コミュニティーの反発を買い、紛争が生じた。このためパウロとバルナバは、足の塵を払って別の町に移動した。
一行は、ピシディア州からパンフィリア州に至り、先の上陸地ペルゲに戻って御言葉を語った後、さらにアタリアに下り、そこからシリアのアンティオキアへ向かって船出した。こうして使徒パウロにとって、第1回目の宣教旅行が完了した。
唯だ吾れ足るを知る

英国のエリザベス女王が日本を公式訪問(1975年)した際に、その石庭を絶賛したことで世界的に知られるようになった京都市右京区の臨済宗妙心寺派の寺院、龍安寺(りょうあんじ)の方丈裏手には、徳川光圀が寄進した『知足の蹲踞(つくばい)』が存在する。
蹲踞は、茶室に入る前に手を洗うためのもので、この蹲踞には4つの文字が刻まれている。水を溜めておく中央の四角い穴が、『へん』や『つくり』の『口』として共有されており、写真右隅から反時計回りに読むと中国語の『唯吾知足(唯だ吾れ足るを知る)』、中央上部から時計回りに読めば日本式に『吾唯足知(吾れ唯だ足るを知る)』とも読める。

『唯だ吾れ足るを知る』は、『天上天下唯我独尊、草木国土悉皆成仏(宇宙と一体になった自分が唯一人存在し、全宇宙は本来成仏しており、充足している)』の意ととれる。グノーシス主義における『独り子(アウトゲーネス)』には、『自ら生まれたもの』と言う意味が存在し、イエスは「わたしが道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(ヨハネ14:6)」と、自分が完全無欠な単独者であると名言している。シモン・ペテロも「あなたは永遠なる命の言葉を持っており、われわれはあなたが聖なる単独者であられると信じます(ヨハネ6:68-69)」と証しており、ヨハネ福音書は、その全編を通じて、天地開闢以前に神とともにあり、神そのものであった言葉(ロゴス)から万物が創造され、それが、イエスの実体であることを説き明かしている。

また『吾れ唯だ足るを知る』と読めば、『如何なる状況においても我足れり』と言う境地を示したものと言える。
『口』に当たる中央の方形部分に蓄えられた水は、森羅万象をあるがままに映し、いささかも捕らわれることがない、止水(しすい)の如き心を象徴している。
『知足の蹲踞』は、≪仏遺教経≫の教えに基づくものと見られるが、同種の文様は、鳩摩羅什が後秦(A.D.384-417)の時代に≪仏遺教経≫を中国語に翻訳する以前の漢代(B.C.202-A.D.220)に鋳造された古銭にも見られ、春秋時代(B.C.770-B.C475)の哲学者老子は≪老子道徳経第33章≫の中で『足るを知る者は富む』と説いている。
舎衛の三億

その昔、釈迦は北コーサラ国の都舎衛城に25年間滞在し、多くの民衆を教化した。舎衛城には9億世帯の民がいたが、実際に仏を目にしたのは、3億のみで、他の3億は仏の噂を耳で聞いたが、実際に目にすることはなく、残りの3億に至っては見ることも聞くこともなかった(大智度論:龍樹)。それでも仏は、草木国土悉皆成仏と照見された。ちなみに古代インドでは10万を1億と数えたことから、舎衛城の総人口は90万世帯だったようだ。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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【参照】
○Sergius Paulus
○Sergius Paulus, Proconsul of Cyprus
○龍安寺
○Ryoanji Temple
○龙安寺
○龍安寺の知足の蹲踞
○知足之心---龙安寺的石庭
○“唯吾知足”的来历
○佛遗教经
○『仏遺教経』とは
○《佛遺教經》The Buddha's Last Bequest
○《大智度论》
≪仏遺教経:知足の心≫
なんじら比丘(びく)、もしもろもろの苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足(ちそく)を観(かん)ずべし。知足の法はすなわちこれ、富楽安穏(ふらくあんのん)のところなり。足ることを知る人、地上に臥(ふ)すといえども、なお安楽とす。足ることを知らざる者は、天堂に処(しょ)すといえども、また意にかなわず。足ることを知らざる者は、富めりといえどもしかるに貧し。足ることを知る人、貧しといえどもしかるに富めり。足ることを知らざる者は、常に五欲(ごよく)のために牽(ひ)かれて、足ることを知る者の憐愍(れんびん)するところとなる。これを知足と名づく。
≪老子道徳経第33章≫
人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強なり。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久し、死して亡ぜざる者は寿なり。
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