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書評:聖霊のバプテスマ(運動と安息)

第三回宣教旅行に際して、アジア州における布教を終えたパウロは、ギリシアの諸都市を再訪し、アカイア州のコリントから船でエルサレムに帰還しようとしたが、ユダヤ人の陰謀を察知、マケドニアにとって返すと、ルカと対策を協議、各地の信徒代表から成る一大援護団を率いてエルサレムに乗り込む方針を決めた。
ミレトスにアジア州の長老達を招集し、死地に赴くような悲壮な覚悟を語ったパウロとその一行が、カイサリアに到着すると、ユダヤから下って来たアガボという預言者が、もし、エルサレムでヘレニスト信者とヘブライスト信者の衝突が再燃すれば、大祭司もエルサレム教会も、ステファノ事件の際と同様にパウロの殉教を傍観する他ないとし、エルサレム行き断念を求めた。
このため、随行者も同地の信者も、エルサレム行きを思いとどまるよう重ねてパウロに求めたが、パウロは、「御名のためならば、死も厭わない」と聞き入れなかったため皆は、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐむ他なかった。(使徒21:10-14)
パウロ殺害を計画したのはエルサレム教会内のヘブライスト

エルサレムに着いたパウロが、翌日、随行団を引き連れ、エルサレム教会を率いるヤコブの下に赴くと、そこには同地の長老達が参集しており、彼らは、「兄弟よ、ご存じのように、幾千ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。」(使徒21:20-22)と切り出した。
イエス処刑の1ヶ月半後に大祭司カイアファ邸に隣接して創設されたエルサレム教会には、既に数千のユダヤ人が参加していたようだ。彼らの多くは、恐らく、ユダ族とレビ族双方の血を引くナジル派の司祭として、大祭司のみに許された聖所における祭儀を執り行い、日常生活の全ての戒律を完璧に実践する義人の誉れ高い小ヤコブを慕って参加したものと見られる。ところが、パウロが異境の地で暮らすユダヤ人に「子供に割礼を施すな」と説いている言う噂が伝えられたことから、激昂したこれら数千のユダヤ人が、パウロに危害を加える恐れがある。「いったい、どうしたらよいでしょうか。」と言うのである。
このことから、『解放された奴隷の会堂』のメンバーのみならず、エルサレム教会内部のヘブライストも、パウロに危害を加えようとしていたことが分かる。おそらく両者は密接な関係を保持しており、パウロに危害を加えようとしている者の圧倒的多数は、エルサレム教会内部に存在していたようだ。
パウロにナジル人の誓願の立ち会い求める

長老らは、「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」(使徒21:23-24)と提案した。
要するにパウロに『ナジル人の誓願』の立ち会い人を務めるとともに、こうした儀式の費用を、請願者に代わって負担せよと言うのである。旧約民数記第6章1-21節に定められた『ナジル人の誓願』の作法によれば、ナジル人としての聖別の期間が満ちたものは、会見の天幕(エルサレム神殿)に赴き、一歳の雄の子羊、一歳の雌の子羊、成長した雄羊各1頭、種なしパン一籠、油を混ぜた小麦粉の輪型のパンと油を塗った種を入れないせんべいから成るささげ物、そして注ぎのささげ物を献上し、髪の毛を剃り、祭司の立ち会いの下に火にくべなければならない。
このことからエルサレム教会の長老達は、パウロに『ナジル人の誓願』の立会人を務めさせることを、予め神殿の祭司階級と打ち合わせし、大祭司の承認も得ていたことが窺える。
長老達はさらに「異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」(使徒21:25)と付言した。
つまりパウロがアジア州の異邦人に布教するのは問題ないが、海外在住のユダヤ人に、『子供に割礼を施すな』説くことはまかりならない。割礼を否定することは、ユダヤ人のアイデンティティを捨てることに他ならず、それでは最早ユダヤ教ではない別の宗教になってしまうと言うのである。
決別

この時点でエルサレム教会が選んだ道とパウロが選んだ道が全く別のものであることが明確になった。パウロは、同提案には従ったものの、その後もユダヤ人と非ユダヤ人の別なく『モーセの律法に依らず、信仰によって義と認められるイエスの道(ローマ3:28)" 』を説き続け、≪ガラテヤ人への手紙≫において「もし割礼を受けようとするなら、あなたがたは誰であろうと、キリストとは縁もゆかりない者とされ、恵みも失います(ガラ5:2-4)」と警告、また≪フィリピ人への手紙≫では、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷に過ぎない割礼をもつ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けたものです。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(フィリピ3:2-3)」と述べている。
結果的に、パウロは捕縛され、ローマで処刑されることになり、エルサレム教会は、ユダヤ戦争後、徐々に忘却され、最終的に消滅した。ローマ軍に包囲される寸前にエルサレムを脱出した同教会のヘブライスト信者の多くはユダヤ教に回帰し、ガリラヤ出身のヨハネやアンティオキア教会を率いるバルナバやマルコらは、ルカらに率いられるヘレニスト・グループに合流したものと見られる。
運動と安息

イエスは最後の晩餐の席で「私が父のみもとからあなたがたに遣わす真理の御霊は、私について証しをするが、あなたがたも証しをせねばならない、なぜならあなた方は、(この世の)はじめから私と一緒にいたのだから(ヨハネ15:26-27)」と弟子達に説き聞かせた。イエスはさらにこう述べている。「もし彼らがあなた方に『あなた方はどこから来たのか』と言うならば、彼らに言いなさい、『私たちは光から来た。そこで光が生じたのである。それは自立して、彼らの像(エイコーン)において現れ出た』。もし彼らがあなた方に、『それがあなた方なのか』と言うならば、言いなさい。『私たちはその光の子らであり、生ける父の選ばれた者である』。もし彼らがあなた方に『あなた方の中にある父のしるしは何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と」。(トマス50)
一摂一切

ハワイ州立大学マノア校で哲学教授を務めた張錘元(チャン・チュンユアン1907-1988)氏によると、この頃、北インドに生じた大乗仏教運動の使徒たち、華厳僧は、特殊性と特殊性、そして各特殊性と普遍性の間の調和的相互作用が、輝ける宇宙を形成していると考え、この時空の制限から完全に解放された光の世界を法界と呼んだ。
それから数百年を経て中国の華厳僧、法蔵(ほうぞう643-720)は、『普遍性』と『特殊性』、『一』と『多』の間の妨げられることのない完全な相互ソリューションの概念を10個の鏡の相互反射と言う喩えで説明した。彼は10個の鏡を上下と四方に向かい合わせに配置し、中央にイルミネーションを施した仏像を立たせた。それぞれの鏡には仏像が投影された。またそれぞれの鏡には他の全ての鏡の中の像が、相互に無限に投影された。一つの鏡は、他の九つの鏡に投影され、これらの九つの鏡は、同時に一つの鏡にとり込まれる。言い換えれば、一は全てに内在し、全ては一に包摂される。
≪華厳法界観門≫の注釈書を書いた圭峰宗密(けいほうしゅうみつ:780-841)は、この道理を以下のように定式化した。
1.『一摂一切、一入一切』:一が全てに摂取される時、一は全てに浸透する。
2.『一切摂一、一切入一』:全てが一に摂取される時、全てが一に浸透する。
3.『一摂一、一入一』:一が一に摂取される時、一は一に浸透する。
4.『一切摂一切、一切入一切』:全てが全てに摂取される時、全てが全てに浸透する。
五位偏正

これにより、全ての力と全ての構成要素の無限の相互作用により、この世が生成、消滅、発展していることが、理解できる。法蔵は「この道理を理解するものは、立ちどころに悟りが開ける」と述べており、イエスも「私のことば(道理)にとどまる者は、真理を知り、真理はその人を解放する(ヨハネ8:31-32)」と説いている。とは言え、知的理解により『百尺竿頭』に立つことができたにしても、そこからイエスと寸分違わぬ喜びが満ちあふれる究極の救い(ヨハネ17:13)や「天上天下唯我独尊、草木国土悉皆成仏」と証見した釈迦の境地に到達するには、依然として『百尺竿頭の一歩』が必要とされる。
そこで洞山了价(どうざん・りょうかい807-869)禅師は、さらに一段と工夫を凝らし、宗密が『一摂一切、一入一切』/『一切摂一、一切入一』/『一摂一、一入一』/『一切摂一切、一切入一切』の4句で表現した『特殊性と普遍性の融合』と言う概念を、『正中偏』と『偏中正』と言うより簡潔な2句に収攬した上で、こうした『形而上学的理解』から『霊的覚醒』に飛躍する3つのプロセス、『正中来』/『偏中至』/『兼中到』を加え、『五位偏正』の理論を構築した。
1. 正中偏:普遍性の中の特殊性
2. 偏中正:特殊性の中の普遍性
3. 正中来:普遍性から入る悟り
4. 偏中至:特殊性から到達する悟り
5. 兼中到:普遍性と特殊性の間から到達する悟り
五位功勲

これにより、『理(普遍)』即ち時空を超越した絶対の真理が、常に『事(特殊)』即ち時空の制限を受けた特殊性の中に存在すると言う華厳哲学の『形而上学的理解』が如何にして釈迦やキリストの『霊的覚醒』に飛躍するのかと言うプロセスがおおよそ理解できる。とは言え、これも依然として知的理解に留まっており、キリスト教徒や仏教徒が誰も皆、『イエスと寸分違わぬ喜びが満ちあふれる究極の救い(ヨハネ17:13)』や『天上天下唯我独尊、草木国土悉皆成仏』と証見した釈迦の境地に到達する『霊的覚醒』、換言すれば『聖霊のバプテスマ』を体験できるとは限らない。
そこで洞山禅師は、『五位功勲(ごいこうくん)』と言う『五位偏正』を補完する華厳哲学の四法界の概念のもう一つの応用理論を提起した。
1.『向』もしくは主観
2.『奉』もしくは客観
3.『功』もしくは静(行為の起点)
4.『共功』もしくは動と静の混交
5.『功功』もしくは動と静からの完全な解放
張錘元教授によると、最初の二ランク(位)は『特殊性の中の普遍性』と『普遍性の中の特殊性』に分類され、ともに『事』の華厳世界に属している。
第三位に関して洞山は、『農夫が鍬をおき、白雲の下で暫し休息している』状態と説明しており、どうやら『静』を表現したもののようだ。
第四位に関して大慧宗杲(だいえ・そうこう1089-1163)禅師は「『静』は『動』を通じて認識され、『動』は『静』を通じて認識される」と説明している。つまり『理』と『事』が相互に融合する世界を示している。
第五位に関しては、夾山善会(かっさん・ぜんえ 805-881)禅師が「私の内に夾山(主観)はなく、私の前に僧(客観)はない」と述べているように、『主観』と『客観』からの完全な解放を表しており、大慧宗杲やその他の禅僧は、これは『事』と『事』の完全な相互融合の世界と述べている。
人間に食われる獅子は幸い、獅子に食われる人間は忌まわしい

法蔵は、朝廷においてその華厳哲学を講義した際、『理』と『事』あるいは『実体』と『外観』の間の完璧な相互無礙のソリューションを、宮殿内に据えられた『金色の獅子』に喩えた。獅子は、『事』あるいは『外観』の表象だが、『金』が伴わなければ、実体がない。その一方で、金は獅子と言う外観なしには、存在できない。両者は相互に依存しあいながら存在している。相互ソルーションにより、金が獅子であり、獅子が金である時、実体と外観の区別は消失する。
一方、イエスは「人間に食われる獅子は幸いだ。そうすれば獅子が人間になる。そして獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば人間が獅子になる。(トマス7)」と説いている。
グノーシスの用語からすれば、『獅子』は、『この世の君=創造神』の隠喩であり、『人間』は 『至高(アイオーン)に到達し得る霊的人間=不滅の自己』を指し、『食う』は『克服する』の隠喩である。つまり、人間が創造神を支配すれば、創造神も至高に到達できるが、創造神が人間を支配するなら人間は創造神のレベルとどまるだけである。人が神を支配すべきであって、その逆ではないと言うのである。もしパウロが、モーセの律法を超えたと言うなら、イエスは旧約の創造神を克服した人間中心の宗教の樹立を目指したようだ。イエスは「この世がさばかれる時が来た。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう(ヨハネ12:31-32)。これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしの内にあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。なぜならわたしはすでにこの世を克服したのだから(ヨハネ16:33)」と説いている。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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