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書評:聖霊のバプテスマ(枯木龍吟)

パウロが聖霊の禁を犯して決行したアジア州における布教は、第1回使徒会議の合意を逸脱するものとして、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々のみならず、エルサレム教会の主流派や両者の後ろ盾を務めたハナン家(アンナスやカイアファ等の大祭司一族)を含む祭司階級の逆鱗に触れたようだ。
アジア州における布教を終えたパウロは、第二回宣教旅行で伝教したギリシアの諸都市を再訪し、アカイア州のコリントから船でエルサレムに帰還しようとしたが、ユダヤ人の陰謀を察知、マケドニアにとって返した。ルカと対策を協議の末、各地の信徒代表から成る一大援護団を率いてエルサレムに乗り込む方針を決めた。パウロは、ミレトスにアジア州の長老達を招集し、死地に赴くような悲壮な覚悟を語ったため、人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
アガボ、捕縛の運命を予言、エルサレム行き中止を勧告
ミレトスを船出したパウロ一行は、コス島、ロドス島を経てパタラに渡り、フェニキア行きの船に乗り継ぎ、ティルスの港に着いた。一行は、ここに7日間滞在したが、エルサレムにおける険悪な空気は、直線距離で160キロ近くも離れたティルスにまで伝わっていたようで、同地の信者達もエルサレムへ行かないように、繰り返し説得を試みた。(使徒21:4)
ティルスから船でプトレマイスを経由し、カイサリアに着いた一行は、フィリポの家に数日滞在した。フィリポは、殉教者ステファノと共に、一時、十二使徒らに代わってエルサレム教会の日常業務の管理を引き受けた7人のヘレニストの一人。

この時、ユダヤから下って来たアガボという預言者は、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」これを聞き、パウロの随行者も同地の信者も、エルサレム行きを思いとどまるよう重ねてパウロに求めた。(使徒21:10-12)
クラウディウス帝の治世に大飢饉の発生を預言した(使徒11;28)ことで知られるアガボは、パウロが第1回使徒会議の合意を反故にした上、聖霊の禁を犯してまで決行したアジア州における布教は『解放された奴隷の会堂』のメンバーを激昂させており、エルサレム教会やハナン家も最早パウロを庇うことはできないことを伝え、エルサレム訪問を断念させるために教会から派遣されたものと見られる。
当時エルサレムの宗教界は、『解放された奴隷の会堂』のメンバーらによりリードされていたものと見られる。『解放された奴隷の会堂』も、エルサレム教会も、共にハナン家を後ろ盾にしていたが、この時、大祭司を務めていたのは、カルキス王ヘロデ(在位41-48)により任命されたネデバイオスの子アナニヤ(在位46-52)と言う人物で、ハナン家の出身ではなかった。彼はユダヤ人とサマリヤ人の紛争処理を巡り、ローマで裁判にかけられたが、皇帝クラウディウス1世により無罪を判決された。しかしユダヤ戦争が勃発した際、反乱軍により殺害された。いずれにしても、仮にパウロが地中海沿岸各地のヘレニスト信者の代表団を率いてエルサレムに乗り込み、ヘレニストとヘブライストの激突が再燃すれば、大祭司は、ステファノ事件の際と同様の措置を採らざるを得なかったものと見られる。アガボは、小ヤコブを初めとするエルサレム教会の主流派は、ステファノ事件の時と同様に、パウロの殉教を傍観する他ないこと、つまり、これは決して『解放された奴隷の会堂』メンバーの陰謀などではなく、教会主流派を含むエルサレム宗教界の総意であることを、パウロにハッキリ伝達する使命を帯びていたものと見られる。
しかし、パウロは、「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことも、厭わない」と聞き入れなかった。このため皆は、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐむ他なかったと言う。(使徒21:13-14)
この時、パウロには、エルサレム行きを断念し、アンティオキア教会に戻る選択肢もあったにちがいない。しかし、エルサレム教会のみならず、アンティオキア教会のバルナバやマルコさえも、ユダヤ教原理主義への回帰を目指す『解放された奴隷の会堂』の主張に同調する姿勢を見せており、時間が経過すればするほど、パウロは孤立する他なかった。また、地中海沿岸各地のヘレニスト信者から成る一大援護団を率いて、エルサレムに乗り込むなどと言う機会は二度と巡って来ないことを、パウロはハッキリ自覚していた。このため既定方針通りエルサレムに赴く道を選んだものと見られる。
ちなみに、フィリポにも預言をする四人の未婚の娘がいたと言う(使徒21:9)。どうやら、当時のキリスト教会には、聖書の解釈や日常の規範に関わる指導を担当する教師(teacher)の他に、神の啓示を伝達する預言者(prophet)が存在し、使徒(Apostle)は、教師と預言者双方の役割を兼務していたようだ。イエスも時には教師、時には預言者と呼ばれた。
イエスの預言
イエスは三十四年の生涯の最後にただ一度十字架にかけられたのではない。三十四年の生涯そのものが十字架であった。彼においては生涯を通じてすべての出来事が、そのまま予め定められた神の言葉の成就であった。彼について定められた神の言葉が、彼の生涯の行為によって証しされた時、人類は千古不磨の経典を持ち得た。

イエスが最後の晩餐の席で、そして、その後の捕縛されるまでの間に十二使徒らに語った言葉は、彼の生涯を通じた伝道の総括であり、弟子達が進むべき道を指し示した預言であった。
イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたはわかっている」と語ると、トマスは、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と尋ねた。すると、イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父も知っていたはずである。しかし、これからは、あなががたは確かに父を知り、またすでに父を見たのである」と語った。しかしピリポは、「主よ、私たちに父を見せてください。それで十分です」と応じた。イエスは、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしのうちにおられるのが分からないのか。わたしが語ることばは、単にわたしのことばではない。みわざを行うわたしの内に宿られた父のことばである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものを信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くのだから。」(ヨハネ14:4-12)
イエスと使徒達のこの商量は、大乗仏教の精華、華厳哲学そのものであり、洞山了价(どうざん・りょうかい807-869)が提唱した特殊性と普遍性の間の5つの関係に関する『五位偏正(ごいへんしょう)』や、臨済義玄(りんざい・ぎげん?-867)が掲げた主体と客体の遊離の4つの過程に関する『四料簡(しりょうけん)』の理論を彷彿とさせる。
大乗仏教の西遷

ヘレニズムやグノーティシズムが世界的に拡散し、解放奴隷を自称する商人達が、西の辺境ブリテン島のロンドンに金融街を形成していた頃、北インドでは大乗仏教が興隆した。アレキサンダ-大王の死後、紀元前232年までにほぼ全インドを支配下に収めたマウリア王国第3代のアショカ王は、セレウコス朝ペルシャやプトレマイオス朝エジプト、さらにはギリシアにまで、前後256回にわたり仏教の伝道師を派遣した。エルマーR.グルーバー/ホルガー・ケルステン両氏の共著『イエスは仏教徒だった』によると、アレクサンドリア・ユダヤ人共同体の指導者で歴史家のフィロン(20/30BC-40/45AD)は、アレキサンドリア近郊のマレイア湖畔に、清貧、禁欲、服従、善行、慈悲と瞑想を旨とし、家族を含む一切の世俗的事物を捨てた菜食主義者のテラペウタイと言う人々が共同生活をしていたと述べており、彼らはアショカ王がプトレマイオス二世の時代に同国の首都アレキサンドリアへ送った伝道師の末裔と見られる。
『教会運動』の淵源

アレキサンダー大王の東征に伴い東西文化の交流が加速する中、パレスチナに誕生した神話時代を除けば史上初のユダヤ教徒の統一国家ハスモン朝は、国内の非ユダヤ人をユダヤ教に集団改宗させただけでなく、隣接するシリアや小アジア、北アフリカにまで、ユダヤ教を拡散させた。この時、『解放された奴隷の会堂』のメンバーらが、海外における布教の先兵を務め、彼らの布教活動から地中海沿岸各地に、異邦人ユダヤ教徒による教会運動が派生した。その実、北アフリカのキレネやアレキサンドリアには、それ以前からユダヤ教徒の一大コミュニティーが形成されており、アレキサンドリアでは、プトレマイオス王朝の支援の下に、ユダヤ教典のギリシア語への翻訳がなされたのみならず、ユダヤ教とギリシア哲学の融合が図られ、ユダヤ教を批判的に吸収したグノーティシズムの潮流も生じた。
華厳哲学と禅

一方、中国では西暦420年に全60巻から成る漢訳大乗経第一版(晋経)が、西暦699年に全80巻から成る第二版(唐経)が、そして798年に最終の40巻から成る『入法界品』の翻訳が、それぞれ完成し、大乗教典の完璧な中国語化が実現した。ユダヤ教のギリシア語訳の完成が、グノーティシズムやキリスト教誕生の要因になったように、漢訳大乗経の完成は、東方世界における仏教興隆の決定的要因になった。
ハワイ州立大学マノア校で哲学教授を務めた張錘元(チャン・チュンユアン1907-1988)氏によると、取り分け『理(普遍)』と『事(特殊)』の相互依存と、時空を超越した融合を説く華厳哲学が、禅仏教に極めて大きな影響を及ぼした。
華厳哲学において、『理』即ち時空を超越した絶対の真理は、常に『事』即ち時空の制限を受けた特殊性の中に存在する。中国の華厳僧、澄観(ちょうかん760-820)は、『理』と『事』を、『水』と『波』の関係に喩え、「水のない波はなく、波のない水もない」と述べ、同じく華厳僧の法蔵(ほうぞう643-720)も「事がなければ理は存在しない。如何に純粋と言っても、両者の混交は免れない。絶対の真理は常に『事』の中に具現する。事はその完全さにおいて理が内在しており、混交は常に純粋だからである。『理』と『事』はそれ自体自由に存在することができ、また純粋と混交の間に障害はない」と説いている。

こうした華厳の哲学は、グノーシスの教義に通じるが、易経の繋辞も「変化により明らかになるものが事(通変之謂事)」と説いており、近代英国の数学者で哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)も「一つの分子は、現実的生起の歴史的通過点であり、こうした通過点は一つの事件である」と述べている。張教授は、「中国の古代人と現代哲学者は、『事』が、固定したものではなく、絶え間なく変化する運動と理解する点で意見の一致を見たようだ。したがって、『事』とは、運動の過程における特殊事例もしくは生起である」と述べている。
百尺竿頭の一歩
法蔵は、その著≪華厳義海百門≫において、「この道理が分かるなら、立ちどころに悟りが開ける」と説いているが、禅家が『百尺の竿(さお)』と称するこの種の形而上学的アプローチを通じて悟りに至るのは、実際にはほとんど不可能である。そこで熱烈な禅家の学人は、知的深淵を極めるよりも、心的覚醒に努めるのである。とは言え洞山了价や臨済義玄のような指導的禅僧は、華厳の形而上学的構造を完璧に理解した上で、前者は、特殊性と普遍性の間の5つの関係に関する『五位偏正』の理論を、後者は、主体と客体の遊離の4つの過程に関する『四料簡』の理論を、それぞれ構築、百尺竿頭の一歩(悟り)を実現する禅風を興した。
枯木裏に龍吟ず

中国の唐王朝の末期、一人の僧が香厳智閑(きょうげん・ちかん?~898)禅師に「道とは何でしょう(如何なるか、是れ道)」と質問すると、香厳は「枯れ木で龍が囀っている(枯木裏に龍吟ず)」と答えた。その僧は「おっしゃる意味がわかりません」と言った。すると香厳は「髑髏にも目玉がある(髑髏裏眼晴)」と言った。その僧は、やはり納得できなかったようで、今度は石霜慶諸(せきそう・けいしよ807~888)禅師に「香厳和尚の言ったことについてどう思いますか」と質問した。石霜は、「『枯木裏に龍吟ず』と言うなら、まだ喜びがあるようだ(猶帯喜在)」と答えた。では「『髑髏にも目玉がある』とはどう言う意味ですか」と、重ねて聞くと、石霜は、「まだ心の働きがあると言うことだ(猶帶識在)」と言った。
洞山了价禅師とともに、曹洞宗を開いた曹山本寂(そうざん・ほんじゃく840-901)禅師は、この一連の商量に対して以下の頌を詠んだ。
枯木龍吟、真に道見ゆ。
髑髏識無し、眼初(もと)より明。
喜識尽きる時、消息も尽きる。
当(まさ)に那(こ)のように濁中に清を弁ずべし
張教授によれば、禅の真髄は決して単なる『静』ではなく、『動』の内に『静』を見いだすことである。つまり静と動は相互に交わり、一体化する。したがって枯木裏に龍が吟じ、髑髏に眼光が輝くのである。『理』が『事』とともに認識されるのと同じである。だから、曹山は、『純』は『濁』を通じて出現すると主張したのである。換言すれば龍吟は、枯木の顕現に他ならない。龍吟がなければ、枯木の出現もないのである。龍吟と枯木は、相対して初めて確認される。龍吟が枯木であり、枯木が龍吟なのである。華厳の表現をもってすれば、理はすなわち事であり、事はすなわち理である。
最後の晩餐の席で、「私たちに父を見せてください」と問うたピリポに対して、イエスは「わたしが父におり、父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」と答えた(ヨハネ14:8-10)。この世に現れたイエスは時空の制約を受けた『事』であるが、『理』すなわち神の存在は、イエスのわざを通じて初めて明らかになる。とは言え、『事』は決して、イエス一人に限らない。森羅万象すべてに『理』は内在しており、耳さえあれば、枯木からでも龍吟(神のわざ)を聞き取ることができる。イエスは、「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう(トマス77)」と述べ、「人がこの世に生まれて来るのは、神のみわざが、彼の上に現れるためであり、誰も皆、昼の間は、その人を遣わされた方のわざをせねばならず、生まれながらの盲人も例外ではない(ヨハネ9:3-4)」と説いている。
イエスが、神のみわざをあらわすために十字架にかかる決意をしたように、パウロもエルサレムに赴き捕縛されることが、自分に課せられた神のみわざをあらわす道と覚悟したものと見られる。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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【参照】

ワシントンD.C.スミソニアン協会フリーア美術館所蔵。この古琴は唐代中期(西暦766-826頃)に製作された。古琴裏側の龍池と鳳沼の回りには各4つと3つの花体の揮毫が施され、龍池上部に『枯木龍吟』の4字が草書で、また龍池と鳳沼の中間の四角のマスには篆書で『清和』と、記されている。
この他、著名な古琴演奏家の汪孟舒氏(1887-1969)も『枯木龍吟』と命名された唐代の古琴を所蔵していた。現在は中国芸術研究院音楽研究所が所蔵している。

後漢の著名な文人蔡邑(133-192)が呉(現在の江浙一帯)に左遷された際、焚き火の中で桐の木片が妙なる音を立てているのを聞き、燃えかけのこの木切れを拾い出して、七弦琴を製作、『焦尾琴』と名付けた。『焦尾琴』はその音色の良さで四海にその名を馳せ、蔡邑が横死した後も宮廷に保管されていた。三百余年を経て、斉の明帝が『焦尾琴』の音色を鑑賞しようと思い、古琴の名手王仲雄に演奏させたところ、王仲雄は5日間演奏し続け、その曲に『懊悩曲』と名付けて明帝に献上した。時代は下って、明代に昆山人の王逢年という者が蔡邑作の『焦尾琴』を所蔵していたと言う記録も存在すると言う。
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