イエスの十字架計画(6)
贖い主と選択的一神教
古代バビロニアやエジプトで、奴隷の身分を体験した遊牧の民、ユダヤ民族は、奴隷の境遇から救済してくれる贖い主ヤハウェの信仰を培った。この信仰は、異民族にはそれぞれ異なる贖い主が存在するが、『ユダヤ人の贖い主はヤハウェのみ』と言う選択的一神教であり、裏返せば多神教を前提にしている。
レビ記25章
38わたしはあなたがたの神、ヤハウェである。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。
39もし、あなたがたのもとにいるあなたがたの兄弟たちが貧しくなり、あなたがたに身売りしても、彼らを奴隷として仕えさせてはならない。
40彼らをあなたがたの雇い人または寄宿者としておらせ、ヨベルの年まであなたがたのもとで働かせなさい。
41そして、彼らとその子どもたちがあなたがたのもとから出て行き、自分たちの一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼らは自分たちの先祖の所有地に帰ることができる。
42彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは 奴隷の身分として売られてはならない。
開放的だったユダヤ教の始祖たち
実際、ユダヤの歴史には、ペルシア、エジプト、バビロニア等の他民族の宗教を取り入れ、開放的な多神教に傾斜した比較的長期にわたる時代が存在した。その反動として一神教が強調されたこともあるが、テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、開祖アブラハムはエジプト人ハガルと同棲、ヨセフはエジプト人アセナテを、モーセはミディアン人チッポラをそれぞれ妻とし、ダビデはゲッシュル王の娘をめとり、ソロモンはエドム、シドン、アンモン、モアブ、その他諸民族の女性と交わったが、決して妻や愛人にユダヤ教への改宗を求めなかった。つまりヤハウェ以外の神を信じる配偶者の信仰を尊重したのである。このようにユダヤ教の始祖たちは決して排他的一神教の追随者ではなかった。
神話史(Mythistory)の考古学的文献史的根拠
サンド教授によると、モーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出し、ダビデやソロモンがイスラエルに統一国家を建設したと言う旧約の伝承は、考古学的にも、文献史学的にも根拠がなく、実際は、宗教的に開放的で、比較的早く国家としての体裁を備えたイスラエル北王国と宗教的に保守的で弱小なユダ地方が長期にわたり併存、イエスの数世代前のハスモン朝の時代になって初めて統一王国が成立したと言う。
日本民族が中国に対する対抗意識から、中国の史書に倣って古事記や日本書紀を編纂したように、弱小なユダ王国は、北王国に対抗し、創世記にまでさかのぼって旧約の神話を創作したものと見られる。
サンド教授によると、約束の地カナンは、古代エジプトの領土内にあり、カナン地方に生じた些細な事件まで、エジプト側の記録に残っているが、モーゼがユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、カナンに移住したといった事件の記録はなく、ダビデやソロモンが建国したとされる統一王国の存在を裏付ける考古学的遺跡も発見されていないと言う。
ハスモン朝統一国家の誕生
しかし、ヨハネス・ヒスカルノス王(祭司マタティアスの孫)が紀元前125年にイドマヤの地方を、ヒスカルノスの息子アリストブロス王が紀元前104-103年にガリラヤ地方を、アリストブロスの弟アレクサンドロス・ヤンナイオス王がサマリヤ、ガザ、グデラを、それぞれ征服、住民をユダヤ教に改宗させたため、この時代にユダヤ民族は数倍に増加した。
ユダヤ教の国際化
ハスモン朝のヤンナイオス王は、セレウコス朝シリアの支配を覆し、神殿を清めた祭司マタティアスのひ孫でありながら、ヘレニズム文化を大々的に吸収する近代化政策を推進した。この結果、ファリサイ派(第二神殿時代とりわけハスモン朝以降の政治・宗教・社会運動集団)との関係が悪化した。王が、仮庵の祭りの期間に神殿内に集まったファリサイ派とその支持者6000人あまりを殺害したことから、内戦状態に陥った。内戦は6年間に及び、その間に5万人が命を落とした。
サドカイ派の他、エッセネ派とも手を結び、内戦に勝利したヤンナイオス王は、プトレマイオス朝との戦いにも勝ち、ヨルダン川東部地域に領土を拡大したが、エジプト国内サカス東部のラガバ要塞の包囲攻撃中に49歳で陣没した。王は、ファリサイ派に権力を与え、同派に自分の遺骸を自由に処分させるように遺言、ファリサイ派との関係修復を図った。その結果、ファリサイ派はヤンナイオスを称賛し、盛大な葬儀を執り行ったと言う。(ウィキ)
サンド教授は、「ヘレニズムはユダヤ教に反部族的な普遍主義という重大な要素を注入し、『申命記』の排他的命令を忘れさせた」と指摘している。かくて異民族の集団改宗に拍車がかかった。また領土拡大の余勢をかって、ユダヤ教の海外における布教活動も活発化、マタイ福音書23章15節に、『偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。』と述べられているような状況が現出した。同教授によれば、最盛期にはローマ帝国の人口の7~8%がユダヤ教徒で占められたと言う。
ヘロデ王朝の成立
アレクサンドロス・ヤンナイオスの時代に、同王はアンティパス将軍をエドムの長官に任命した。同将軍の息子アンティパトロスは、紀元前47年にガイウス・ユリウス・カエサルからローマのユダヤ地区統治代理人に任命された。カエサルはそれ以前の紀元前63年にイスラエルを占領していた。
アンティパトロスは、2人の息子ファサエロスとヘロデをそれぞれエルサレムとガリラヤの総督に任命した。紀元前43年にアンティパトロスは毒殺されたが、二人の息子は紀元前41年ローマの将軍マルクス・アントニウスからそれぞれ領主(tetrarch)の地位を認められた。
紀元前40年、ハスモン朝の末裔アンティゴノスⅡ世マティアスがパルティアの支援を得てファサエロスとヘロデの支配地へ侵攻、ファサエロスを殺害、国王と大祭司の職を兼務し、ハスモン朝を再興した。
ローマに逃亡し、ローマ元老院から『ユダヤ人の王』の称号を与えられたヘロデはアントニウスの支援を得て、エルサレムに進軍、紀元前37年にアンティゴノスを打倒し、ヘロデ王朝を樹立した。(ウィキ)
ヘロデ・アンティパスと洗礼者ヨハネ
大王と称されたヘロデが紀元前4年に亡くなると、3人の息子が国土を分割統治した。①ヘロデとサマリア人マルタケ(Malthace)の息子ヘロデ・アルケラオスは、王国の中心ユダヤ、エドムおよびサマリアを、②ヘロデの5番目の妻クレオパトラの息子ヘロデ・フィリッポスⅠ世は、バタネアやガウラニティスなどの北東部を、③アルケラオスの同母弟ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレア(Perea)を、それぞれ統治した。(ウィキ)
ローマ皇帝アウグストゥスは、ユダヤとアラビアの隣国ナバテヤとの友好のために、ヘロデ・アンティパスとナバテヤ王アレタス四世の娘を結婚させたが、アンティパスは、異母兄のフィリポスが死去した際、ナバテヤ王の娘を離縁し、異母兄の妻ヘロディアと再婚した。
洗礼者ヨハネが、兄嫁との再婚はモーセの律法(Torah)に反するとして反対したため、アンティパスはヨハネを死海湖畔のマケラス要塞に幽閉、その後斬首した。洗礼者ヨハネを信奉するファリサイ派は、エドム出身で、ローマと親密な関係を有するヘロデ王家を、ヘレニズム文化を積極的に導入したハスモン朝同様、毛嫌いしていた。ちなみに、ハスモン朝のヤンナイオス王も、兄嫁と結婚し、このことがファリサイ派との軋轢の一因になった。
王族の確執
兄嫁との結婚は、少なくともユダヤの国家的統一に多少寄与したものと見られるが、ローマ皇帝の媒酌により結婚した隣国の王女を何故離縁したかは、明らかでない。ユダヤ教は一夫多妻を否定しておらず、実際、アンティパスの父親、ヘロデ大王は複数の妻を持っていた。当然ながら、ナバテヤとの二国間関係は悪化し、戦争状態に陥り、ローマとの関係も冷却した。アンティパスはあるいはハスモン朝のヤンナイオス王同様、武力により近隣諸国を切り従え、分裂したユダヤを再興する野心を抱いていたのかも知れない。
当時、ローマの帝政は極めて不安定で、地方軍団、元老院、宮廷を巻き込んだ陰謀が四方に渦巻いていた。こうした中でヘロデ大王の子や孫達はそれぞれ独自に、ローマの諸勢力と関係を築き生き残りを図っていた。
ローマ時代のユダヤ人歴史家ヨセフスによると、カリグラがローマ皇帝に即位した際、彼は親友のアグリパ1世(ヘロデ大王とハスモン朝の王女の孫、ヘロディアの兄、アンティパスの甥)に、フィリッポスⅠ世のかつての所領を与え、王の称号を用いることを許した。これを嫉妬したヘロディアは、夫アンティパスにも国王の称号を認めるよう誓願させた。これを知ったアグリッパは直ちにカリグラ帝に、叔父にはティベリウス帝に謀反を企てた前歴があり、今も7万人を装備するに足りる武器を蓄え、カリグラ帝に対する反乱を準備していると密告した。カリグラ帝は、アンティパスの申し開きも聞いた後、西暦39年夏、アンティパスをガリアのリヨンに追放、その所領と財産を親友アグリッパに委ねる裁決を下した。アグリッパの死後、その領地はローマの直轄地になったが、クラウディウス帝の宮廷で育ったアグリッパ2世は、クラウディウスの引き立てで、ヘロデ王朝最後の王になった。
王族、イエス教団の動向を注視
なおヨハネの首を密かに手厚く葬ったとされるアンティパスの家令クーザの妻ヨハンナは、その後イエスの弟子になり、イエスの処刑と埋葬も見届けている。この点からアンティパスの新興宗教勢力に対する慎重な配慮が窺える。実際、ローマ総督ピラトがイエスを彼の下に送り届けた際、アンティパスは歓喜したとされる。ルカ福音書によると、長らくイエスに会うことを楽しみにしていた、アンティパスはイエスに様々な質問を試みたが、イエスは一言も答えなかったと言う。一方、アグリッパ2世は、カイサリアにローマ総督フェストゥスを訪問した時、とらわれの身であったパウロと対話、その言葉に感銘を受けたという。
イエスの宗教運動
サンド教授によると、イエスが育ったガリラヤは、住民の大多数を占めるイトゥレヤ人が支配していた。イシマイル人(アブラハムとエジプト人ハガルの間に生まれた長男イシマイルの子孫=アラブ民族)と称されるイトゥレヤ人の起源は定かでないが、おそらくフェニキア人もしくはアラブ系部族だったものと見られる。
イエスの弟子の多くは、ガリラヤやギリシャの植民都市デカポリス(現在のヨルダン)の出身者で、ファリサイ派のみならず洗礼者ヨハネの弟子からまで、その振る舞いを咎められるほど、ユダヤ教の戒律や規則に疎かった。こうしたことから、イエスは、食事の作法から断食、祈祷、施し、安息日に至るまでユダヤ教の根幹に関わるほとんど全ての規則を、時には激しく、時には皮肉とユーモアをまじえて批判している。したがってイエスの宗教活動には、ハスモン朝時代に大量にユダヤ教に改宗した新参ユダヤ人による宗教改革運動としての側面も存在するものと見られる。
イエスは選ばれた、誰に?
イエスは当初、洗礼者ヨハネ同様、ユダヤ地方で布教活動を行っていたが、ヨハネが投獄されたことを知り、一旦ガリラヤに退いた。その後、十二使徒を指名し、教団を建て直したイエスの下に獄中のヨハネは、『あなたこそメシアではないのか』と激励する使者を送った(マタイ11:3)。
大祭司カイアファやその舅で前任者のアンナスも、ローマ帝国の支配下にユダヤが生き残るためには、『多人種複合国家の宗教的結束を回復するようなメシアの到来が必要』と考えたようだ。二人は、イエスに白羽の矢を立て、何度も使者を送り、メシアの証をするよう求めた。こうした使者には、大祭司に直属する司祭階級を代表するサドカイ派の他、洗礼者ヨハネを信奉するファリサイ派のメンバーも含まれていた(マタイ15章等)。
実父と面会
こうした中、イエスは、突然ガリラヤを後にし、フェニキア人がイスラエル西北の地中海沿岸に築いた異邦人の都市ツロ(ティルス)とシドン(いずれも現在のレバノンに位置)を訪れた。
マルコ福音書7章24節には「イエスはそこを立ち去って、ティルスとシドンの地方に行かれた。ある家に入り、誰にも知られたくないと思っていられたが、人々に気づかれてしまった」と言う謎めいた記述が存在する。
『イエスの王朝』の著者ジェイムズD.テイバー氏は、「イエスが突然、ヘロデの領土であるガリラヤを出て、ティルスやシドンと言ったフェニキアの沿岸地方に行ったのはなぜか、そしてガリラヤに戻る際も、一番の近道ではなく再度シドンを通っている」と疑問を提起している。
テイバー氏によると、当時シドンには、イエスの実の父親と見られるティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラが所属するローマ軍第一歩兵射撃隊が駐屯していた。軍務につくことを通じ奴隷の身分からローマの市民権を獲得したこの射撃手は、『神の僕』を意味するアブデスという名からセム族の出身らしくユダヤ人であった可能性もあると言う。
メシア宣言
イエスはその後南下し、カエサレア・ピリピに至った。ここでイエスは、自分こそキリストであると宣言するとともに、エルサレムにのぼり十字架にかかる計画を弟子たちに明かした(マタイ16章)。さらにペテロとゼベダイの兄弟のみを連れて山にのぼり、モーセおよびエリアとの邂逅を演出した(マタイ17章)。
しかしイエスはエルサレムに直行せず、もう一度北上しシドンに至り、再度南下してガリラヤ湖をわたると、ヨルダン川の東にギリシャ人が築いた植民都市群デカポリスに赴いた。
贖罪と復活信仰
カエサレア・ピリピでイエスが十字架にかかる自身の運命を予告した際、ペテロは、驚愕し、計画を断念するよう説得したが、イエスは、この第一の弟子に対して「サタンよ退け」と痛罵した。弟子たちの驚愕ぶりから、イエスの当初の教えには贖罪や復活の信仰は含まれておらず、弟子たちにとっては寝耳に水だったことが窺える。贖罪と復活は、とりわけファリサイ派が信奉するユダヤ教の教理である。
パウロは、イエスこそ『贖い主としてのキリスト』を具現するものであると確信し、贖罪と復活信仰をキリスト教の根幹として体系化したものと見られる。つまりイエスがパウロを選んだのではなく、パウロがイエスを選んだのである。世に『パウロの回心』と言われるが、パウロは決してファリサイ派であることを止め、イエス教団に加わったのではない。イエス教団を自らの『贖罪信仰』に取り込んだのである。
この点について日本基督教団伊丹教会の山中均之氏(甲南大学名誉教授)は、「パウロはイエスの弟子として、その教えを伝えたのではありません。その教えの実行を可能にする贖い主としてのキリストを伝えたのです。聖書の新約の中で、福音書よりも前に、最初に書かれましたパウロの手紙は、このことを述べています。これがキリスト教の救いということであり、キリスト教信仰の核心です。」と述べている。
洗礼者ヨハネが、自分の宗教運動を継承するものは、イエスであり、彼こそメシアであると宣言したため、洗礼者ヨハネの多くの弟子が、イエスの教団に合流したが、その時点でイエスはファリサイ派の復活論や終末論、あるいは贖罪論を具現するメシアの役割を担う決意を固めたものと見られる。しかしイエスは最後の晩餐を終えた後、十字架にかかる決意をした真の理由を、弟子たちに語っている。
十字架刑の真意
ヨハネ福音書17章15-17節において、イエスは「私の願いは決して苦悩に満ちたこの世から弟子たちを救い出してもらうことではありません。なぜなら彼らは本来この世には属していないからです。彼らを真理の御霊により聖別して下さい。御言葉は真理です。」と、神に祈る形をかりて弟子たちに、十字架にかかる真の意味を伝えている。
イエスはさらに「私が今十字架にかかるのも、自分自身を聖別するためです。そうすれば、私を宿す彼らも完璧に聖別されるはずです。」(19節)「そして彼らを通じて私を信じるものも一つになれば、最終的に世界も一つになり(20~23節)、天地開闢以前に私とあなたが共有していた栄光と愛を(22-24節)、この世の全てが、共有するようになるはずです」と祈っている。
イエスはヨハネ福音書の中でまた弟子たちに向かって、「あなた方は、この世には属しておらず、本来クリーン(無垢)である」と、つまり贖罪など全く必要ないと、繰り返し述べている(ヨハネ15章3,19:17章6,14,16)。これはまさしく、「本来無一物いずれのところにか塵埃をひかん」と言うイエスの信仰の原点を明らかにしたものと言える。
イエスはさらに「あなた方は初めから私と一緒にいたのだから(ヨハネ15:27)」と念をおしている。つまり我々は天地開闢以前からイエスとともにいたのである。
参照1:本来無一物
中国唐朝の禅僧、五祖弘忍大師が衣鉢をつぐ弟子を決めるため、その心境を偈(詩)にして提出するよう命じた際、上座の神秀(605-706)は直ちに「身はこれ菩提樹、心は明鏡台のごとし。時時に払拭して塵埃をひかしむるなかれ」と南廊の壁に大書した。これを見た新参の恵能(638-713)は、「菩提もと樹にあらず、明鏡また台なし。本来無一物いずれのところにか塵埃をひかん」と、神秀の偈の隣りに書き添えた。弘忍大師は、恵能に衣鉢を授け、密かに南方に逐電させた。この結果、弘忍大師の死後、中国北部には神秀の流れをくみ漸進的修行を重んじる北漸派が興隆、南部には六祖恵能の流れをくみ頓悟を重んじる南頓派が隆盛した。
参照2:すべては空
ちなみに、贖い主としてのヤハウェの信仰はまた『賤民即選民』と言う思想を培い、キリスト教の根底には、貧しいもの、小さいものほど贖いの対象に相応しいと言う思想が存在する。イエスは「富めるものが天国に入ることはラクダが針の穴を通るより難しい」(マタイ19:24)と述べている。
究極の貧しさ、小ささは『空』に通じる。旧約『伝道の書(コヘレトの言葉)』には「空の空、傳道者は言う。空の空、すべては空。」(コヘ1:2)、「私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべては空しく、風を追うようなものだから。」(コヘ2:17)と説かれており、キリスト教メルマガを配信している村川享男氏によると、『伝道の書』には人生の無常と虚無の思想が存在すると言う。
この書は古来ソロモン(BC965-BC925頃)の作とされて来た。しかし実際には、ソロモンから数百年後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけて、第二神殿時代(BC538~AD70)に書かれたものらしい。
いずれにしてもインドと中東でほぼ同時期に無常と空の思想が説かれていたことになる。そしてイエスが十字架刑に処せられた頃、インドでは大乗仏教運動が生じた。
聖別
生身の人間は、現世において罪を犯し、塵埃にまみれることを免れない。それは、人の子としてのイエスも同じである。この世にある限り、イエスが十字架を通じた聖別を必要としたように、人は常に究極の真理(御言葉)と向き合い、格闘することを通じて自分自身を聖別せねばならない。
もし我々が自分の十字架(天命/神の意思)を負う覚悟をするなら、イエスは我々の内に生き続け、最終的に世界が一つになることができる。またその覚悟さえすれば、いつ到来するか分からぬ終末を待つまでもなく、その瞬間にイエスが味わったのと全く同じ至福を得られるとイエスは説いる。
これはグノーシス派の教理そのものであり、復活を否定するサドカイ派の教えにも通じるところがある。
大祭司カイアファの役割
ローマ総督から大祭司の職を委ねられたカイアファやその舅アンナスは、イエスの説教ために神殿を開放し、神殿内にたむろする商人たちを追い払うのを許しただけでなく、ロバに乗って入城すること、つまりユダヤの王として入城することさえ認めた。
当時、エルサレムの市街も神殿も堅固な城壁で囲まれていた。しかも、この年の過ぎ越の祭りには、直線で87キロほど離れたカイザリアからローマ総督が、また同116キロほど離れたティベリアからガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスが、エルサレムを訪れたため、警戒は一層厳重だったと想像される。
イエスはまさにこの時期を選んで計画を実行したが、当然大祭司の許可を得ていたものと見られ、さもなければロバに乗り群衆を従えて市街に入城し、縄の鞭をふるって商人たちを神殿から追い払うことなど不可能だった。イエスはこのような事件を起こした後も、神殿内で、説教を行っており、大祭司が特別に許可していたことが窺える。ヨハネ福音書によれば、大祭司と親しい弟子の一人は、イエスが捕縛された際も、イエスとともに大祭司の屋敷に自分が入り込んだだけでなく、ペテロを屋敷内に入れるよう交渉役を務めている。
大乗仏教の中で生きるイエスの教え
大祭司、ローマ総督、国王らの協力を得て、イエスの十字架計画は完璧な成功をおさめた。サンド教授によれば、イエスの処刑後、エルサレム在住ユダヤ人の大部分がキリスト教に、その後またイスラム教に改宗した。キリスト教は海外のユダヤ人や非ユダヤ人の間にも急速に広まった。
しかしカトリック教会がパウロの教義をその中心に据え、ローマ帝国がキリスト教を国教に定める中で、グノーシス派が異端と宣告されたことから、西欧におけるキリスト教は、ヨハネ福音書が存在したにも関わらず、その後、片肺飛行を強いられて来た。
とは言えトマスが東洋に伝えたイエスの本来の教えは、マニ教や仏教に影響を与えただけでなく、その後中国や日本に興隆した大乗仏教の中で今も生き続けている。(回光庵返照2011-12-31)
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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【参照】
聖トマス・キリスト教会
聖トマス・キリスト教会は、西暦1世紀の使徒トマスの布教活動に起源を発するインドのケララ州に存在する古典的教会組織。彼らはまた『ナザレのイエス』の信奉者『ナザラニス』として知られる。ケララ州聖トマス教会は現在も『ナザラニ』と言う表現を用いている。
彼らはまたシリア式礼拝儀礼を用いていることから『シリアン・クリスチャン』と称される。礼拝儀式用語はアラム原語に由来し、その後シリア語に転化した。彼らはまた、マラバルもしくはマランカラと呼ばれるケララ州を拠点にし、マラヤーラム語を用いていることから、マラバル/マランカラ・マー・トマス・ナザラニスとも呼ばれる。(wikipedia)
<1>マー・トマス・シロ・マラバル・カトリック教会(Kodungaloor, Kerala)
聖トマスによりインドに設けられた7つの教会の1つと信じられる。
<2>セント・トマス・シロ・マラバル・カトリック教会(Palayur, Kerala)
聖トマスによりインドに設けられた7つの教会の1つと信じられる。
<3>セント・トマス・シロ・マラバル・カトリック教会(Kottakayal, North Paravur, Kerala)
聖トマスによりインドに設けられた7つの教会の1つと信じられる。
<4>セント・メアリー正教会(Niranam, Kerala)
聖トマスによりインドに設けられた7つの教会の1つと信じられる。
<5>セント・トマス・シロ・マラバル・カトリック教会(Kokkamangalam, Kerala)
聖トマスによりインドに設けられた7つの教会の1つと信じられる。
<6>セント・メアリー正教会(Thiruvithamcode Arappally = Royal Church)
西暦63年に聖トマスにより創設されたとされる。『Arapalli』は『Arachan Palli』の短縮形で王立教会の意。
<7>セント・メアリー・シロ・マラバル・カトリック教会(Kudamaloor)
西暦1125年にチェンパカセリ王により創設された。
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