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書評:聖霊のバプテスマ(サバス)

第三回宣教旅行を終えた後、エルサレムに赴いたパウロは預言者アガボが警告した通り、異邦人の手に引き渡された。しかし、パウロは皇帝への上訴を口実に、ローマにおける布教と言う当初の目標を達成した。
シドンでヘレニスト信者の饗応受ける

近衛連隊所属の百人隊長ユリウスが、護送隊の指揮官を務め、アドラミティオン籍の船でカエサリアを出港した護送隊には、使徒行伝の著者ルカの他、テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも同行した。ユリウスは、パウロを鄭重に遇し、翌日シドンに着くと、ヘレニスト信者らのもてなしを受けることを認めた。(使徒27:1-3)
マルタ島に漂着

一行は、リキア州ミラでアレキサンドリア籍の船に乗り継ぎ、アナトリア半島南岸沿いにクニドスまで進んだ。しかしその後、暴風に見舞われ、クレタ島ガウダ沖を通過した翌日積み荷を、三日目にも船具も捨て、14日目には船員の逃亡を防ぐため、救命ボートも切り放した。島影が見え、水深も浅いことを確認したため、十分食事を取った後、食料も捨て、島に向かって進んだ。途中で座礁したものの、二百七十六人全員が無事マルタ島に漂着した。同島の長(おさ)プブリウスは、3日間にわたり一行を歓待した。(使徒27:4-28:7)
ローマ信徒の出迎え受ける

パウロ一行はマルタ島に3ヶ月滞在後、別のアレキサンドリア籍の船で、シチリア島のシラクサとイタリア半島南端のレギウムを経て中部の港ポテオリに到着した。一行は、ここで、信徒の家に7日間滞在後、陸路ローマに向けて出発、アピイフォルムおよびトレス・タベルネで、ローマ在住の信徒達の出迎を受けた。
ローマに到着したパウロは独自の家に住むことを許され、番兵が一人配置された。パウロは三日後にローマ在住の重立ったユダヤ人をその家に招き、皇帝に上訴するためにローマに護送された経緯を説明した。
するとユダヤ人たちは、「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです」と語った。
その後、ユダヤ人達は定期的にパウロの宿舎を訪れ、パウロは朝から晩までイエスの道を説き聞かせた。しかしある者は信じ、ある者は信じなかった。(使徒28:1-24)
神の救いは異邦人に

そこでパウロは立ち去ろうとする人々に対して、「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」と語った。(使徒28:25-28)
≪使徒行伝≫の初期の底本はここで完結しているが、異本には以下の3節が追加されている。
パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ人たちは大いに論じ合いながら帰って行った。パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。(使徒28:29-31)
ローマに飛び火したヘレニストとヘブライストの対立

クラウディウス帝は西暦49年に、全てのユダヤ人にローマ市内から退去するよう命じた。ユダヤ人のローマ市内からの追放は、これ以前にも少なくとも2回行われており、早くも紀元前139年に過度な布教活動を理由に追放令が発せられた。そして西暦19年にもティベリウス帝が同様の理由でユダヤ人を市外に追放している。しかしパウロがローマに到着した西暦59年頃にも依然として強固なユダヤ教徒のコミュニティーが存在したようだ。おそらくこうしたユダヤ教徒の大多数は異邦人、言い換えれば未割礼のユダヤ教徒だったものと見られる。つまり、パウロがエルサレムで行ったヘブライストとヘレニストの棲み分けの真逆の実験がローマでは過去188年間に少なくとも3度行われ、エルサレムに純粋なヘブライストのキリスト教会が誕生したように、ローマにはヘレニストのユダヤ教徒コミュニティーが出現したものと見られる。
このためパウロが説く『モーセの律法に依らず、信仰によって義と認められるイエスの道(ローマ3:28)" 』が受け入れられやすい環境が整っていた。しかし、その後再びユダヤ人がローマ市内に帰還し、エルサレム教会もペトロを初めとするヘブライスト宣教師をローマに派遣したため、パウロとエルサレム教会の対立が再燃したようだ。
ローマ教会が西暦96~97年頃、コリント教会に書き送った『クレメンスの第1の手紙』は、ペテロがローマにやって来ると、二人の使徒の対立から、ローマ・キリスト教会の内部に激しい緊張状態が生じたことを、示唆していると言う。(パウロの生涯とイエスの実像)
小ヤコブの行信一如は『正中来』

ヘレニストの使徒パウロの『回心』と『復活』の実体験を、洞山了价(どうざん・りょうかい807-869)禅師の『五位偏正』の理論に当てはめれば、『普遍性:イエスの顕現』と『特殊性:ステファノの殉教とヘレニスト信者に対する迫害』の間から到達する悟り、したがって第五位の『兼中到』に相当するとすれば、ヘブライストの使徒小ヤコブが説く『行信一如』は、『普遍性から入る悟り』、したがって第三位の『正中来』と言うことができるだろう。

ハワイ州立大学マノア校で哲学教授を務めた張錘元(チャン・チュンユアン1907-1988)氏によると、『正中来』とは『語の意味するところは無語の中にある(無語中有語)」と言うことを指している。つまり、悟りの境地は空から生じると言うことである。なぜなら『静』は『空』と同じだから。洞山は、『五位功勲』においても『動』は『静』から生じると述べている。宏智正覚 (わんし・しょうがく1083-1159)は、「『浄や空の本質は虚』とはどう言う状態か」と問われた時、彼は、「それは分別の心がまだ生じない、そして一言も発せられていない瞬間だ」と答えた。『無』の刹那の認識を捕らえる時、その者は頓悟する。これを『正中来』もしくは普遍性から生じる悟りと言う。牛頭法融(ごず・ほうゆう594-657)は「あなたの心が行動の内にある一刹那は、行動するための心の構えがない刹那と同じだ」と説いている。

この悟りの理論は、臨済宗によりしばしば「それは単なる冥想に過ぎない」と批判された。宏智正覚の敵手大慧宗杲(だいえ・そうこう1089-1163)は公案を通じた訓練を善しとし、黙照に反対したが、正覚はこれを『看話禅(かんわぜん)』と呼んで批判した。宏智正覚を初めとする曹洞宗の師家たちは、冥想は悟りに至る基本であるとし、黙照派(もくしょうは)を創始した。それから100年以上後、道元(どうげん1200-1253)は、宏智禅師門下の天童如浄(てんどうにょじょう1091-1228)から禅を学び、帰国後、『只管打坐(しかんだざ)』と『修証一等(しゅうしょういっとう)』を基本理念とする日本曹洞宗を開いた。
張教授が、臨済宗鎌倉圓覚寺の管長朝比奈宗源(あさひな・そうげん1891-1979)老師に、「曹洞宗が奉じる黙照は、悟りの極地と思うか」と聞いたところ、宗源老師は「その通りだ」と言ってから「照見は純真無垢でなければならない」と付言したと言う。つまり曹洞宗の目指すところは、臨済宗のそれと同じで、アプローチの仕方が異なるだけのようだ。

安息
≪使徒行伝≫の最終節において「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とのべているが、ローマ到着の二年後、おそらく西暦60-62年の間に殉教したものと見られる。≪パウロ行伝≫によると、パウロはローマ市民権を保持していたため、裁判の結果、奴隷や重犯罪者などに対する『磔(はりつけ)』ではなく、斬首刑に処せられたと言う。

しかしペテロは西暦64年頃、ローマで磔に処せられたようだ。また小ヤコブは、大祭司との関係悪化から、西暦62年にエルサレムで石打の刑に処せられた。
ちなみに皇帝ネロと前任者のクラウディウス帝は、パウロ以前に少なくとも二度ユダヤの宗教問題に関する上訴に裁定を下している。
西暦52年、大祭司アナニアは、ユダヤ人とサマリア人との間に生じたある問題のためローマに送られて裁判を受けたが、クラウディウス帝によって無罪を判決された。
またアグリッパ二世が、神殿内を監視できるように、ハスモン朝時代の城塞に高い壁を設けると、ユダヤ人はさらに高い壁を建て、視界を遮った。この問題で、アグリッパ二世とエルサレムの祭司階級の間に論争が生じた際、総督フェストゥスは、軍事上の理由からユダヤ人が建てた壁の撤去を命じたが、皇帝ネロに上訴することを許可、ネロは上訴を認めた。

パウロのものを含め、ローマ皇帝がこれら3件の上訴に対して下した裁定は、いずれもユダヤ教徒主流派に配慮したものになっている。アグリッパ二世がフェストゥス総督に、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに(使徒26:32)」と言ったのもこうした経緯があったからかも知れない。
西暦64年にはローマ市内で大火が発生し、この時、ネロ帝は、キリスト教徒を大火の犯人として処刑した。ネロはグノーシス主義の開祖で洗礼者ヨハネの弟子だったとされるサマリア出身のシモン・マグスを宗教顧問にしていたとされ、またユダヤ人史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によると、ネロの愛妻ポッパエアは、ユダヤ人社会と親密な関係を保持していた。このため、ポッパエアの口添えによりユダヤ人の中でもキリスト教徒のみが犯人とされ、処刑されたと言う説が古くから存在すると言う。(日本語版ウィキ)

ローマのユダヤ総督府やヘロデ王家は、発足当初からエルサレム教会に寛大で、時には親密な態度も示したが、ローマの中央政府は、ユダヤ全体の治安を維持する観点からユダヤ教主流派により配慮したようだ。フェリクスやフェストゥスは、ユダヤ総督としてユダヤ人のためのローマ市民権を如何に制度化するかに腐心していたと言う。(英語版ウィキ)
一方、ローマの市民権を認められた解放された奴隷の会堂のメンバーや、大祭司に率いられるサンヘドリン、ヘロデ王室、さらにはエルサレム教会もローマの支配を受け入れ、ローマの支配の下で、その勢力の維持・拡大を図ったが、ローマの支配そのものに反抗する熱心党やシカリ派が大衆に支持され、急速に台頭したため、ローマとイスラエルの蜜月に終止符が打たれたものと見られる。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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