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書評:聖霊のバプテスマ(アラム語ルーツIV)

 イーサー(イエス) -マリアの子- が言った。「この世は橋である。渡って行きなさい。しかし、そこに家を建ててはならない。(クルアーン)
ムガル帝国第3代皇帝アクバル(1556-1605)は、他宗教との共存と世界の平和的統一を目指す『ディーニ・イラーヒー(Din-e-Ilahi:神の宗教)』の理想の下、グジャラート地方を平定後、王都ファテープル・シークリー(ウッタルプラデシュ州アーグラの西約40キロ)に建設した凱旋門『ブランド・ダルワーザー(壮麗門)』の壁面に「イーサー(イエス) -マリアの子- は言った。この世は橋である。渡って行きなさい。しかし、そこに家を建ててはならない。この一時を見たものは、永遠を欲するかも知れないが、総じてこの世は一時に過ぎない。祈りの中に過ごしなさい。その後は見えないのだから。」と言うイエスの言葉を記した。

米国ライス大学社会学部のクレイグ・コンシジン教授によると、アクバルはその治世を通じてキリスト教、ヒンズー教、ジャイナ教、ゾロアスター教の神学者や詩人、学者、哲学者を宮廷に招き、宗教に関する対話を行い、ウッタル・プラデーシュ州アーグラの西約40キロに位置する都市ファテープル・シークリーには、あらゆる宗教者が参加して対話する『イビダット・カーナ(礼拝の家)』を建設した。また非イスラム教徒に対する人頭税(ジアズ)を廃止し、他宗教からイスラム教への改宗はもとより、イスラム教徒の他宗教への改宗も認めた。彼はヒンドゥー教徒のジョダ・バイおよびキリスト教徒のマリア・ザマニ・ベグムを初めとして多数の異教の妻を娶り、ベグムとの間に生まれた息子のムラドには宮廷において新約聖書を講義させた。その際ムラドは、通常のイスラム教徒が用いる『アラーの御名の下に』ではなく、『キリストの御名の下に』と前置きして聖書を講義したと言う。また、ヒンドゥー教の寺院で宿敵メーワール王国のボージラージ王子の妻ミラバイのクリシュナ賛歌に感動したアクバル王は、クリシュナ像の足下にダイヤモンドのネックレスを供えた。このネックレスは宗教間の隔たりを越える橋を象徴していると言う。
≪新約聖書≫の正典や外典に、この≪クルアーン≫の一節はそのままの形では、存在しないが、恐らくトマスによりインドにも伝えられた『Q語録』に含まれていたものと見られる。イエスは≪トマス福音書≫第42節において「過ぎ去りゆく者となりなさい」と述べており、またパウロは≪コリント信徒への手紙一≫の中で「この世と交渉のある者はそれに深入りしてはならない。何故ならこの世の有様は過ぎ去るからである(コ一7:31)。」と説いている。
日本語版『トマスによる福音書』の著者荒井献氏によると、パウロのこの言葉は『終末』の接近を前提にしているが、≪トマス福音書≫のイエスにとって『御国』は、『自己を知る者』の中に実現されている(トマス3,67,113)のだから、「グノーシス(覚知)者は非本来的なこの世の事象にとらわれず、むしろ『過ぎ去り行く者』に成り切りなさい」と励ましている。
イエスは聖徳太子の予型

キリスト教神学の上から、旧約聖書に描かれたことを『予型(type)』と呼び、それが予定したと考えられる新約聖書に描かれている出来事を『対型(antitype)』と言うが、イエス・キリストは日本に聖徳太子が誕生することを新約聖書が予定した『予型』であった、つまり聖徳太子は,イエス・キリストの『対型』であった。
『弥生時代(BC10C.-AD3C.)』から『大化の改新(AD645)』に至る時代は、中国における王朝の交代と遊牧民族の侵攻に伴う騒乱が朝鮮半島に波及し、大量の移民が日本列島に押し寄せた疾風怒濤の時代だった。縄文人と呼ばれる先住民(16000-3000年前)は、鉄器や農耕技術、さらには騎馬の習慣を携えて大挙押し寄せるこれらの移民を否応なく受け入れざるを得なかった。やがて誕生した大和朝廷も、元来開放的で積極的に先進的な外来文化を受け入れたものと見られる。しかし、聖徳太子の時代には、朝鮮半島の百済/新羅や中国の隋、果ては中央アジアの王朝とつながりを有する豪族が互いに牽制し合い、大和朝廷は難しい舵取りを強いられていた。
古代日本と中朝交流の記録
ここで、中国の記録から古代日本と中国および朝鮮半島との交流を振り返ってみると、

≪紀元前1027-前770(西周)≫
周の成王の時、天下太平、越裳(えっしょう)は白雉(はくち)を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。『論衡』(倭:中国における日本列島の総称)
≪紀元前770-前475(東周:春秋時代)≫
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪(現在の平壌付近)海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。『漢書:地理志燕地条』
≪紀元前475-前222(東周:戦国時代)≫
会稽(かいけい:浙江省紹興市付近)海外に、東鯷人(とうていひと)あり、分かれて二十余国を為す。また、夷州(いしゅう)および澶州(せんしゅう)あり。伝へ言ふ、「秦の始皇、方士徐福を遣はし、童男女数千人を将ゐて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州に止まる」と。世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に遭ひて流移し澶州に至る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。『漢書:地理志呉地条』
≪西暦57年≫
倭の奴国が後漢の光武帝から金印を授けられた。
≪西暦107年≫
倭国王の帥升(すいしょう)が後漢の安帝に拝謁を求めた。
≪西暦146年から189年の間≫
倭国に大乱が生じたが、卑彌呼と言う女性が王位に就くと大乱が治まった。
≪西暦173年≫
卑彌呼は朝鮮の新羅に使者を派遣した。[辰韓の一国で504年に新羅(Silla)が正式の国名にされる以前は斯蘆(Saro)もしくは斯羅(Sara)と呼ばれていた。]
≪西暦193年≫
約1000人の倭人が新羅に移民した。
≪西暦203年≫
倭軍が新羅に侵攻した。
≪西暦232年≫
倭軍が新羅の王都金城を包囲したが、新羅はこれを撃退、倭人の死者と捕虜は1000人にのぼった。
≪西暦233年≫
倭軍は再度新羅に侵攻したが火攻めに遇い全滅した。
≪西暦239年≫
卑弥呼は魏に使者を派遣、『親魏倭王』の金印と銅鏡100枚を与えられた。
≪西暦240年≫
卑弥呼が死に、倭国は再び混乱、魏の帯方郡太守王頎が張政らを派遣し仲裁、その後卑弥呼の縁戚の壹與と言う女性が13歳で王位に就くと、混乱が治まった。
≪西暦243年≫
壹與は大夫の伊聲耆(イセヱキ)、掖邪狗(ヱキヤク)ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将(しゅうぜんちゅうろしょう)の印綬を受けた。
≪西暦245年≫
魏は邪馬台国の使者難升米(なしめ)に黄幢を授与した。
≪西暦247年≫
邪馬台国は載斯(サイシ)、烏越(ウヲツ)らを帯方郡に派遣、狗奴国(くぬのくに)との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書と、黄幢を授与した。
≪西暦249年≫
倭国の使者が新羅の舒弗邯(ソブルハン)の昔于老(せきうろう)を殺害した。
≪西暦287年≫
倭軍が新羅に侵攻し、新羅兵1000人を捕虜にした。

これ以降、遊牧民が中国北部に侵入し五胡十六国の王朝を建て、南部の漢民族の王朝と覇を競う南北朝時代を迎えたことから、その後約150年近く中国の記録に倭が登場しなくなるが、朝鮮半島でも、遊牧民のツングース系貊人(はくじん)が北部に建てた高句麗が強大になり、南東部の新羅(斯蘆国)及び南西部の百済(馬韓の伯済国)と鼎立する三国時代が現出した。百済は、仏教の振興に熱心な中国南部の梁や日本との関係を強化することにより、高句麗や新羅の侵攻に対抗しようとしたものと見られる。
『邪馬台国』は『ヤマト国』
ちなみに、卑弥呼が統治した邪馬台国について、中国の歴史書は、邪馬壹国(三国志魏志倭人伝)、邪馬臺国(後漢書)、邪馬臺国(梁書)、邪馬臺(隋書)と表記されており、『邪馬壹国』と『邪馬臺国』と言う異なる2種類の表記が存在するが、日本では、これまで後者に基づき『ヤマタイコク』と発音してきた。しかし、石井古事記研究会の元木明彦副会長によると、漢字は、旁(つくり)が『発音』を表しており、『壹』も『臺』も旁だけをとってみれば、発音は『ト(ウ)』で、どちらの場合も『ヤマト』と言う発音になる。また日本古代史研究家福永晋三(ふくなが しんぞう)氏によると万葉仮名の句読法でも『ヤマト』と発音されるべきだと言う。だとすれば、邪馬台国も天遜族の国だったことになる。換言すれば、中央アジアのバルハシ湖畔の弓月(ゆづき)から渡来したユダヤ人の末裔ヤマトウ族が建てた国だった可能性がある。

距離の表記に『周里』を使用
もう一つ、注目すべき点は、福永晋三氏によると、≪三国志魏志倭人伝≫で用いられている距離の単位『里』は、67.5メートル。これは周代のもので、秦代の405メートルや魏の時代の72メートルではないと言う。福永氏によれば、三国志や梁書あるいは隋書等は、後漢書の記述を参照しているようだ。
邪馬台国を訪れた魏の使者や漢代の史書編者が、わざわざ周代の『里』を用いて、楽浪郡(ピョンヤン辺り)や帯方郡(ソウル辺り)から倭の各地までの距離を測定したとは考えられない。恐らく倭人自身の口述に従って記録したのだろう。とは言え縄文時代や弥生時代の土着の倭人が『ピタゴラスの定理』や中国伝来の『海島算経』の測量技術を駆使して日本列島各地と中国や朝鮮までの距離を測定したなどと言うことはあり得ない。しかし、前述の通り早くも周の時代に倭人は成王に薬草を献上し、浙江省の会稽で商いをしていた。これらの倭人は、恐らく朝鮮半島を経由して日本列島に大挙流入した異民族に違いない。その中には中央アジアのバルハシ湖畔からはるばる渡来したヤマトウ族も含まれていたことだろう。
『四国山上説』

邪馬台国が存在した位置に関しては従来天孫降臨神話の舞台であり、朝鮮半島経由で渡来した豪族の拠点とされた『北九州説』と大和朝廷が発足した『畿内説』が有力視されていたが、どちらの説も≪三国志魏志倭人伝≫に記述された魏の使節が邪馬台国を訪れた際の旅程と相違すると言う難があった。しかし最近は、同旅程を含む≪魏志倭人伝≫の記述に符合する『四国山上説』が脚光を浴びている。ただしこの説では1里を76-77メートルに設定しているようだ。同説を主唱する大杉博(おおすぎひろし)氏によると、邪馬台国の住人は焼き畑農耕を主体とする山上生活をしていたらしい。この生活様式は、≪魏志倭人伝≫の記述に符合しており、また原始的農耕に依存した縄文人の伝統を踏襲したものと言える。しかし馬や牛を用いなかったと言う≪魏志倭人伝≫の記述は、バルハシ湖畔の弓月から渡来した遊牧民ヤマトウ族の生活様式とは相容れない観がある。
日本人の縄文人由来の遺伝子情報は僅か10%

プロテスタント系聖書解説者の久保有政氏は、現代日本人のY染色体(男性だけが持つ)の遺伝子については、D系統が40%、O系統は50%、残りの約10%はC系統、その他で、縄文人自体、日本列島で発生した訳はなく、渡来人であった。また単一民族ではなく、いくつかの民族や部族からなっていたと指摘する。
米国アリゾナ大学のマイケル・ハマー助教授と国立遺伝学研究所の宝来聡(ほうらいさとし)研究員が日本人のルーツを探るため、Y染色体中のAlu塩基配列(YAP: Y Alu polymorphic)の有無を調べたところ、日本人全体では25%の割合で存在したが、アイヌでは90%、沖縄人は50%、韓国人は1%、中国人は1%、チベット人は50%だった。
ハマー助教授は5万年前に中央アジアでAluがY染色体に入った時、縄文人の祖先が誕生したと見ている。
[ちなみにハマー氏等は、2000年に、1371人の(ユダヤ人)男性を対象に調査し、ヨーロッパ、北アフリカ、および中東のユダヤ人コミュニティに共通する父方の遺伝子プールの一部が、中東の共通の先祖集団に由来することを確認した。イスラエル(パレスチナ)に住むユダヤ系市民とアラブ系市民に対するDNA調査に関しては、ユダヤ人男性の70%以上、アラブ人男性の82%以上が、過去数千年以内に当該地域に住んでいた同じ父方の先祖からY染色体を継承していた。(ウィキペディア)]

宝来氏によると、YAPプラス染色体は1万年前に縄文人とともに日本に渡来、そして弥生人の移住にともなって2300年前からYAPマイナス染色体の大規模な浸透が開始された。
また東海大学の田嶋敦(たじまあつし)助教授によると、アイヌに分布するD2系統とC1が縄文人の遺伝子型と考えられ、C3もその可能性があると言う。
分子人類学者の崎谷満(さきたに みつる1954-)氏によると、日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名である。世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっている。日本人は、アイヌ人から本土日本人そして沖縄人まで、共通して基本的に北方古モンゴロイド(Paleo-Mongoloid)を基調としており、新モンゴロイド(Neo-Mongoloid)を基調とする中国や韓国などの他の東アジアの諸国民とは異なっていると言う。

新旧モンゴロイドの分類は、氷河期への適応経験を有するか否かに基づくもので、新モンゴロイドは、氷期の北アジアで寒冷適応した結果、凹凸の少ない顔立ち、一重まぶたなどの体質的特徴を有する。対照的に古モンゴロイドは、比較的小柄で、一般に彫りが深く、二重まぶたや、多毛などの特徴を持っている。古モンゴロイドはさらに北方系と南方系に分岐し、元々アジア全域に広く分布していた北方系古モンゴロイドは、チベット高原と日本列島を除く地域では、次第に淘汰されたと言う。
『超日本史』の著者でコメンテーターの茂木誠(もぎ まこと)氏は、日本列島住人が保持する『南中国起源の母方遺伝子ミトコンドリアDNAグループD』の比率が、縄文時代の20%から弥生時代に50%に高まり、その後現代人の40%にまで下降したと指摘する。
このことからも弥生時代に大量の南方系中国人が日本列島に流入したことが窺える。換言すればこの時代の日本列島住人の大多数は南方系中国人で占められていたと言えそうだ。その後、この比率が40%に10ポイント下降したとすれば、縄文系が再び急増した可能性以上に、別の種類の移住者(恐らく朝鮮人、北方系中国人、遊牧民等)が大挙流入したと考えられる。
いずれにしても、日本人の遺伝子情報からも、弥生時代に朝鮮半島を経由して異民族が日本列島に怒濤の如く流入したことが分かる。こうして土着の縄文人は少数派になったものの、最近の東大研究チームの報告によると、気候の寒冷化等により一旦急減した縄文人の個体数は、稲作等の先進技術の恩恵を受け、上記グラフのように弥生時代になって再び激増したようだ。
日本人の遺伝学的起源を調査した国立科学博物館他7研究機関の研究者は、日本人類学会の機関誌『人類学2019年5月号』に掲載した『北海道船泊遺跡後期縄文時代男女のゲノム配列』と題するレポートに「現代日本人は一人の縄文人女性から約10%のDNAを受け継いでいる」と報告している。
ヤマト民族意識の形成

福永晋三氏によると、須佐之男命(すさのうのみこと)の出雲王国は、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする天神族(てんじんぞく)に滅ぼされ、その天神族を滅ぼした神武天皇が建てた天満倭国(てんまんわこく:奴国)を引き継いだ卑弥呼の邪馬台国(ヤマト国)は、神功皇后(じんぐうこうごう)によって滅ぼされたと言う。つまり、九州の高千穂の峰に降臨した天遜族が畿内にまで勢力を拡大する過程で、出雲王国や邪馬台国は大和朝廷に包摂されたようだ。
注目に値するのは、北九州や四国さらには畿内の諸豪族の間に早い時期から自らを『ヤマト』族とする共通認識が醸成されていたらしいこと。とすればバルハシ湖畔のヤマトウ族は、中国人や朝鮮人に先んじてしかも一大眷属を引き連れて渡来し、日本列島各地の縄文人と共生関係を築くとともに、大陸と交易し、異民族を日本に引き入れる呼び水の役割を担ったのではなかろうか。
ローマに比肩する世界的な大帝国漢の正史が聖人孔子の言葉や秦の始皇帝の故事を引いて、楽浪海中の楽園蓬莱国や天性温順な倭人の存在を全世界に喧伝したことから、北東アジアのみならず中央アジアからまで、戦乱に疲れた難民が大挙日本列島に渡来したものと見られる。この結果、土着の縄文人はあっという間に少数民族になってしまったが、幸いなことに縄文人は北は北海道から南は沖縄までほぼ満遍なく分布し、弥生時代以前にすでに地域的交易を行っていたことから、渡来人集団が日本列島に生活基盤を築く際には、縄文人の助けを必要としたものと見られる。このため異なる渡来人集団は、縄文人の言葉を媒介語として用いるようになり、その頃すでに土着化していたヤマトウ族が、縄文人や倭人を代表する役割を担うようになったのかもしれない。

久保氏は「日本書紀によれば、神武天皇は『八紘一宇(はっこういちう:世界は一つ屋根の下にある家族)』と述べた」と指摘する。どうやら『サマリヤの王、ヤハウェのエフライム族の高尚な創設者:カム・ヤマト・イハレ・ヒコ・スメラ・ミコト』は、モーセがユダヤの民を率いてエジプトを脱出する以前に、『八紘一宇』の理想を抱いて日本列島に渡来したらしい。彼の『八紘一宇』の理想は、聖徳太子の和を以て貴しとなす『十七条憲法』のみならず、全ての宗教の和合を目指すムガル帝国第三代アクバル皇帝の『ディーニ・イラーヒー(Din-e-Ilahi:神の宗教)』に受け継がれたようだ。
ちなみに、戦前の1938年12月6日、日本政府は「ユダヤ人排斥は人種平等を標榜する日本の『八紘一宇の精神』に合致しない」としてユダヤ人保護のための『ユダヤ人対策要綱』を策定した。これは、当時ハルピン特務機関長だった樋口季一郎(ひぐちきいちろう)少将が、満州とソビエトの国境地帯オトポール(Otpor)で立ち往生していた2万人余のユダヤ人難民の満州国入国を認めた事件に伴うものだった。(以下次号)

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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