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書評:聖霊のバプテスマ(じょうおしせつ:常於此切)

紀元前4世紀末のアレキサンダー大王の東征に伴って生じたシンクレティズム(東西文化融合)の大潮流の中で、ヘレニズム文化の一大中心地アレキサンドリアでギリシア語訳旧約聖書が編纂されると、『解放された奴隷の会堂』の熱狂的メンバーらにより、小アジアや北アフリカはもとよりイベリア半島やブリテン島等のローマ帝国の辺境地帯、さらにはインドやシルク・ロードの東端の中国、ひょっとすると朝鮮や日本にまでユダヤ教が拡散、それにともなってイエスが誕生するはるか以前から地中海沿岸各地に、正式に会堂(シナゴーグ)に参加できない主に未割礼の異邦人ユダヤ教徒のための集会所エクレシア(ecclesia:教会)が形成されたものと見られる。
グノーシズムの起源

この時期にはまた、エジプト/ペルシア/インド等の宗教や文化と融合したユダヤ教の異体としての『グノーシス主義(覚智思想)』の潮流が生じた。紀元前3世紀か前2世紀頃アレキサンドリアに在住した、アリストテレス学派の哲学者アリストブロスは、ギリシア哲学によるユダヤ教の解釈を試み、その後継者フィロン(BC25-AD47)は、プラトン哲学と聖書を合体した。ノース・カロライナ大学宗教学研究所のジェイムズ・D・ティバー所長によれば、ユダヤ人哲学者フィロンは、禁欲的二元論を声高に唱えたプラトンにモーセに次ぐ崇敬の念を抱いたと言う。
こうしたグノーシズムの潮流に晒される中で、イエスは、聖霊のバプテスマを通じたユダヤ教の改革運動に着手し、元々解放された奴隷の会堂のリーダーだった(使徒7:58)と見られるパウロも、ユダヤ教の教理を再構築し、ユニークなパウロ神学を樹立したものと見られる。
使徒行伝やパウロ書簡によると、アレクサンドリア生まれのアポロという雄弁家が、ギリシア南部のアカイア州にわたった後、エルサレム教団も宣教師を派遣したため、州都コリントの教会には、アポロ派、パウロ派、ペテロ派、キリスト派と言った分派活動が生じ(1コリント1:11-13/3:4)、パウロは、異邦人に割礼を強いたエルサレム教団ばかりでなく、グノーシス的傾向を有するアポロ派も激しく非難したが、かえって両派の挟撃にあい孤立したようだ。

パウロは、弟子のテモテに宛てた手紙の中で、「信仰に欠けた無駄話や、誤って知識(グノーシス)と称されている反対論には近づくな」と警鐘、「一部の者はそれ(グノーシズム)に熱中した余り信仰から外れてしまった」と述べている(1テモテ6:20-21)。
しかし、パウロの直弟子テウダからパウロ神学の『奥義』を学んだと称するウァレンティヌスは、バレンティーノ・グノーシズムの名称の起源になった。
オレゴン大学宗教学部のデビッド・M・レイス客員助教授によると、西暦2世紀にゴール地方リヨンの司教を務め、ウァレンティヌスを激しく批判したエイレナイオス(130-202)は、パウロよりもむしろ魔術師サイモンをグノーシス主義の源流と見なしたと言う。
父のしるし

イエスは最後の晩餐の席で「私が父のみもとからあなたがたに遣わす真理の御霊は、私について証しをするが、あなたがたも証しをせねばならない、なぜならあなた方は、(この世の)はじめから私と一緒にいたのだから(ヨハネ15:26-27)」と弟子達に説き聞かせた。
イエスはさらにこう述べている。「もし『あなた方はどこから来たのか』と聞かれたら、『私たちは光から来た』と答えなさい。光は自ら生成し他に依存しない。光の像(エイコーン)として現れる。もし彼らが、『それがあなた方なのか』と言うならば、言いなさい、『私たちはその光の子らであり、生ける父の選ばれた者である』。もし彼らがあなた方に『あなた方の中にある父のしるしは何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と(トマス50)」。
光は至高神(propator:本来の自己)の隠喩で、日本語版『トマスによる福音書』の著者荒井献氏によると、グノーシスの一派、ナハシュ派は、「他から動かされることのない至高神は安息であり、他から動かされないものがすべてのものに運動を与える」と説明している。したがって光りの子らである証しは、運動と安息と言う。
御国の現成

イエスは、さらに「単独者として選ばれた者は、幸いである。なぜなら、あなた方は御国を見出すであろうから。なぜなら、あなた方はそこから来たのだから、再びそこに行くであろうから(トマス49)」と説いている。
荒井献氏によると、『選ばれた者』、『単独者』とは、『分裂を超えて、原初的統合(propator = original Self)を自己の内に回復する者』を意味し、この本来の自己による支配の実現が『御国』の現成を意味する。
イエスはサマリアの水くみ女に、「しかし、あなたがたが霊的再生をとげ、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。いや、もう来ている。父は、このように礼拝をする者たちを求めておられるからである(ヨハネ4:23)」と述べ、霊とまことをもって祈りさえすれば、どこにいようと、そこがエルサレムであり、メッカであり、霊鷲山であり、わざわざ、イスラエルやイスラム国を再建する必要はない。国家や宗教の相違を超えた、一つの世界が実現する日が近づいている。イエスは「目をあけて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。いや既に刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。蒔く者も刈る者も、共に喜ぶためである」(ヨハネ4:35-36)とし、目を開きさえすれば、即今ただ今御国は現成すると激励している。
禾茎粟幹(かけいぞくかん:稲の茎、粟の幹)

時代は下り、中国唐代の禅僧、洞山良价(どうざんりょうかい807-869)禅師に一人の僧が「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の師、法身(ほっしん)の主は何か」と聞いた。
毘盧遮那はサンスクリットで宇宙を意味し、それを体現したのが毘盧遮那仏。また真理の具現として、法身と漢訳される。毘盧遮那仏が師と仰ぎ、法身仏が主人として仕えるような本来の面目(本来の自己)を出して見せろと言うのである。
この挑戦に対して、洞山は、「ほら、これだ」と言って、手元にあったストローを投げ与えた。《景徳伝灯録》には、『師曰く、禾茎粟幹(かけいぞくかん)』とあり、当時はまだプラスチック製のストローがなかったようだ。
衆数(しゅしゅ)に堕(お)ちず

するとその僧は、「法身、応身(おうじん)、報身(ほうじん)の三身の中で、衆数(しゅしゅ:現世の因果)に堕(お)ちないのは、どれか」と、今度は、教理に照らした回答を求めた。
華厳哲学においては、『法身』は時空を超越した絶対の真理(理)を象徴しており、これに対して『応身』は時空の制限を受ける特殊性(事)の世界に降臨した救世主、実在の仏を意味する。初期の大乗仏教では、法身と応身だけだったようだが、その後ナガールジュナ(龍樹菩薩:150?-250?)が中論を著し、天台宗の開祖慧文(550-577)が空、仮、中『三諦』を説くに及んで、理と事の融合を象徴する『報身』が立てられたらしい。この僧は「三身(さんしん)の中(うち)、阿那(いずれの)身(しん)か衆数(しゅしゅ)に堕ちず」と問うているが、『衆数(しゅしゅ)』は大衆、衆生と同義。つまり「因果応報、生老病死等のこの世の定めから解放されているのはどの身か」と問うた。
ちなみに、日本曹洞宗の開祖道元禅師が著した公案集『真字正法眼蔵(しんじしょうぼうげんぞう)』第五十五則では、くだんの僧は、洞山に「あなたは三身の内のどの身で説法しているのか」と問うている。
吾常に此に於いて切なり

これに対して洞山は、「吾(われ)常に此(ここ)に於いて切(せつ)なり(なかなか好い質問だ。自分も常々思案しているところだ)」と応じた。
それから、暫くして、洞山が井戸端で鉢を洗っていると、二羽のカラスが一匹の蛙を捕まえようとして、互いに譲らず凄絶な喧嘩が始まった。折しも上述の僧が通りかかり、「一体どうしてこんな事になったのか」と尋ねた。すると洞山はただ一言、「お前のせいだ」と言った。
つまり、大死一番再活現成して宇宙と一体になった『単独者(Autogenes)』にとっては、井戸端で二羽の烏が蛙を取り合うのも、第三次世界大戦が勃発するのも、皆自分のせいと言うのである。従って法身・応身・報身三身のいずれの身にしろ、一瞬一瞬を、ここが思案のしどころと、薄氷を踏むが如く進まねばならない。趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん778-897)禅師から「大死底の人活する時如何」と問われた投子大同(とすだいどう819-914)禅師も、「夜行を許さず、明に投`じて須らく到るべし(夜は出歩くな。明るくなるのを待つか、提灯ぐらい持って行け)」と答えている。(碧巖録第四十一則)<以下次号>
【参照】
《景徳伝灯録第十五巻》
<両烏争蝦蟇>
師鉢を洗う次いで、両烏(りょうう)蝦蟇(がま)を争う。
僧有り便(すなわ)ち問うて曰く、這個(このこ)什摩(なん)に因(よ)ってか恁摩(いんも)の地に到る。
師曰く、只(ただ)闍梨(じゃり)が為なり。
<常於此切>
僧問う、如何なるか是れ毘盧の師、法身の主なる。
師曰く、禾茎粟幹(かけいぞくかん:稲の茎、粟の幹)。
問う、三身(さんしん)の中(うち)、阿那(いずれの)身(しん)か衆数(しゅしゅ)に堕ちず。
師曰く、吾常に此(ここ)に於いて切(せつ)なり。
《真字正法眼蔵第五十五則》
洞山、因みに僧問う「三身中、那身か説法す」。
師曰く「吾れ常に此に於いて切なり」。
《碧巖録第四十一則》
趙州、投子に問う「大死底の人、却って活する時如何。」
投子云く「夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし。」

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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