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『契約の民の流浪史』スライドショー:人の子とその弟子たち
<『契約の民の流浪史』スライドショー第一話>
拙著『契約の民の流浪史(キリスト教の起源)』の内容をスライド・ショー・シリーズとしてご紹介してまいります。書名の『契約の民の流浪史(キリスト教の起源)』につきましては、別のスライド・ショーでご説明しようと思います。
『坐禅せば四条五条の橋の上、道行く人を深山木と見て』、あるいは、『そのままに見て』と説かれた禅僧もいたそうですが、シンガポールのイーシュン地下鉄駅に隣接した公共住宅の一室で作成しておりますので、列車の通過音や各種生活音が、混入すると思います。また基本的にスライド上のテキストを読み上げるだけで、本人がこれはひどいと感じるしろものですが、鉄面皮で通したいと思います
前置きは、これくらいにして、それではイエスが伝えた福音、『人の子の福音』から始めましょう。今回のスライド・ショー全体のテーマは『人の子とその弟子たち』です。
人の子の福音

イエスは生前、『人の子(Son of Man)』と自称したが、イエスの死後エルサレム教会を率いた弟のヤコブ(小ヤコブ)は、旧約聖書に照らして、その意図を解釈した。≪マタイ福音書≫の著者を含むイエスの他の弟達や≪マルコ福音書≫の著者らも、大筋で小ヤコブの解釈を引き継いだ。
旧約≪エゼキエル書≫に頻出する『人の子』は、神が予言者エゼキエルを『エゼキエルよ』と呼びかける際に用いられており、『一人の人間の子』と言った意味である。
これに対して≪ダニエル書≫には、予言者ダニエルが幻の中で見た光景として、『人の子のような方が天の雲に乗って来られた』と語られている。
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私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル17:13-14)
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おそらくイエスもこれらの旧約聖書の記述にヒントを得て、『人の子』を自称したと見られるが、十二使徒の一人、トマスが著したとされる≪トマスによる福音書≫に登場するイエスは、『単独者として神から独立することこそが御国の現成である」と言う福音を説いており、≪マタイ福音書≫や≪マルコ福音書≫とはおもむきを異にする。≪トマス福音書≫においては、『単独者=イブが分離する以前のアダム=本来の自己』の具現としてのイエス、究極すれば人そのものを指す言葉として『人の子』が、用いられている。荒井献氏によると、≪トマス福音書≫全体のテーマは、地上の『父』に対する『子』の自立と言う(トマス23/49)。
4つの正典福音書の一つ『ヨハネ福音書』は、おおむね前者を引き継いでいるが、後者に近い解釈も取り入れている。

イブと分離する以前の『アダム』の子孫
日本語版『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏によると、≪トマス福音書≫106節のイエスが言った、「もしあなたがたが、二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなるであろう。そして、あなたがたが、『山よ、移れ』と言うならば、山は移るでああろう」は、48節のイエスが言った、「二人の者が同じ家でお互いに平和を保つならば、山に向かって『移れ』と言えば、移るで有ろう」の二重記事だが、『二つのものを一つにする』の一句により、48節よりも、『グノーシス化』が強化されている。

つまり分裂しているものが原初的統合を回復するなら、本来の『人』即ち分裂以前の『アダム』の子孫になると言うのである。≪トマス福音書≫106節中の「あなたがたが、『山よ、移れ』と言うならば、山は移るでああろう」は≪マタイ福音書≫18章19節の「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」および≪マタイ福音書≫17章20節の「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」の後半を思い起こさせる。
パウロは≪コリント信徒への手紙一≫13章2節において、『山を移すほどの強い信仰』を『愛』と対比して批判しているが、これは『グノーシス(認識)』ではなく『信仰』を誇る事に対する批判と見られるため、≪トマス福音書≫よりも≪マタイ福音書≫に対する批判と見られると言う。
『神の子』の福音

一方、『信仰義認』を主唱したパウロはその宣教生涯の初めから終始一貫して,『神の子』の福音を伝えた。彼は、自分は幻の中でイエスからこの福音を伝えられたと述べ、生前のイエスの教えや直弟子達の教えを軽視する姿勢をとった。
≪ルカ福音書≫は、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている(ルカ16:16)」と述べているが、『力ずくでそこ(天国)に入ろうとしている』のは、パウロやルカが率いるヘレニスト信者、すなわち『肉によらないイエス』の信奉者であり、≪ルカ福音書≫はこうした状況を歓迎している。これに対して≪マタイ福音書≫の平行記事は、「洗礼者ヨハネが活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている(マタイ11:12)」と警鐘を鳴らしている。マタイを初めとするイエスの直弟子たち、換言すれば、ヘブライスト信者は、ヘレニスト信者の擡頭に脅威を感じたようだ。
ヨハネ福音書の著者も、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている(ヨハネの手紙一4:2-3)」と述べ、さらに「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである(ヨハネの手紙二1:7)と、パウロの信奉者を激しく非難、「この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである(ヨハネの手紙二1:10-11)」と警告している。
『聖霊のバプテスマ』は『現成公案』
(禅宗の師家が禅堂で学人に与える課題を『古則公案』、現世で直面する問題を『現成公案』と言う。)

何故こんなことになったのかと言えば、『イエスの伝えた福音』、すなわち『聖霊のバプテスマ』そのものに原因があったと言える。≪トマス福音書≫によれば、『聖霊のバプテスマ』とは、原初において自分が神と一体であったことを自覚させること、換言すれば、アダムとイブが分離する以前の本来の自己に立ち返らせることに他ならない。
イエスは、様々な比喩を用いてこのことを説き明かしたが、弟子達はその答えを自ら見いだすほかなかった。弟子達が辿り着いた答えは様々であり、一つではない。正しいかも知れず、正しくないかも知れない。トマスの東方伝道により、インドや中国、そして日本に伝えられた『聖霊のバプテスマ』は禅仏教として結実した。日本の臨済系禅門においては、『悟後の調べ』と称して『父母未生以前自己本来の面目』や『趙州の無字』と言った公案を通った学人に対して老師(ろうし:禅宗の師家に対する敬称)は、『富士山を灯心で絡げて持って来い』と言った応用問題を課す。つまり『天地と同根、万物と我と一体(肇法師の偈)』の絶対の境地に達したなら、臨済義玄(りんざい・ぎげん?-867)が掲げた主体と客体の遊離の4つの過程に関する『四料簡(しりょうけん)』の理論に照らして、富士山を掌に載せて持ち運ぶことなど造作もないはずと言うのである。ちなみに徳川幕府が定めた寺院諸法度の下、臨済宗の僧侶が師家の資格を得るには数十年をかけて数十の公案を通過せねばならず、各公案を通るごとにこの種の『悟後の調べ』が課されたようだ。
イエスは、ヨルダン川とベタニアにおけるヨハネの洗礼と証言を通じてエルサレムの宗教界にデビューした後、僅か3年余りで、十字架に処せられた。ヨハネの証言直後に、弟子入りしたゼベダイの兄弟(大ヤコブとヨハネ)やペテロとアンデレの兄弟が、この三年余の間に『聖霊のバプテスマ』の真髄を覚知すのは至難のことだったにちがいない。

トマスやナタナエル(バルトロマイ)、ピリポ、マグダラのマリア、そしてエッセネ派集会所の管理人のマリア・サロメはそれ以前からイエスと交流していたらしいが、トマス福音書の著者にしても、イエスの死後、東方伝道を通じて、初めて『聖霊のバプテスマ』の真髄を理解し得たものと見られる。
イエスはそんなこと、つまり弟子達の困惑や混乱は初めから承知していた。イエスは、ヨハネから洗礼を受けた瞬間から十字架を負いまっしぐらにゴルゴダの丘に向かって突進することを通じて、全人類に『聖霊のバプテスマ』を施したのである。その結果、十二使徒らにより新約聖書正典や外典が著されただけでなく、イスラム教や大乗仏教が誕生し、禅文化が開花したのである。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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