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書評:聖霊のバプテスマ(ハルマゲドン)

ハルマゲドンは、再臨するイエス・キリストの率いる天の軍勢が、神の権威に敵対する者どもを一網打尽に討ち滅ぼす世界最終戦争(黙示19:11-16)が行われる場所として、新・旧約聖書にただ一度だけ言及されている(黙示16:16)。ヘブライ語の『ハルメギッドーン(Har-Megiddo)』をギリシア語に翻訳したもので、メギドの山と言う意味だが、実際にはエズレル平原を支配していたアハブ王(869-850 BC)が築いた要塞を指している。同地は古来多くの戦闘が行われた古戦場だが、世界最終戦の場としては若干狭すぎるようだ。
『再臨信仰』の再構築

伝承によれば、ユダヤ戦争(A.D.66-74)後、十二使徒の中でただ一人生き残こったヨハネは、エーゲ海の孤島パトモスに流刑された際、洞窟で、幻のイエスから小アジアの7つの教会に対する啓示を託され、その後、エフェソスで『黙示録』を著したとされる。
地中海沿岸各地に自然発生した教会運動の波が、旧約『ダニエル書』の70週の預言に基づく救世主来臨の期待を背景に、エルサレムに押し寄せる中で、海外の異邦人ユダヤ教徒およそ400万人とイスラエル国内のユダヤ教各派約80万人を統括する新組織として、エルサレム教会が発足した当時(少なくとも大祭司カイアファはそのように期待していたにちがいない)、救世主は、西暦33-34年前後に来臨(初臨)し、その後間もなく神の王国が実現するものと期待されていたようだ。『世界に散在する神の子らをエルサレムに呼び戻す(ヨハネ11:49-52)』と言う大祭司カイアファの夢も、イエス処刑の僅か1ヶ月半後に『エルサレム教会』が発足したことより、瞬く間に実現するかに見えた。しかし西暦66年と70年に発生した第一次および第二次ユダヤ戦争により、神殿もエルサレム市もローマ軍により破壊され、期待は完全に裏切られた。このためゼベダイの子ヨハネは、旧約≪ダニエル書≫の続編として、≪黙示録≫を著し、『再臨(Second Coming)信仰』の再構築図ったものと見られる。
アルパでありオメガであるキリストの再臨

黙示録の著者は、神の王国は、決してそう簡単に実現するものではなく、たとえ王国が誕生しても、千年後には、再び悪霊が解き放たれ、地獄絵が再現する。とは言え最終的には、恒久的な神の王国が実現するため、正しい信仰を持ち続けたものは、たとえ殉教しても、終わりの日に、永遠の命を得て復活できる。だから「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ。見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである(黙示録22:11-13)」と、励ましている。
この書の中で、キリストは『終わりの日』がすぐにはおとずれないことを暗示する一方で、『私はすぐに来る』と繰り返し述べている。つまり、アルパでありオメガであるキリストに同期さえすれば、終わりの日を待つまでもなく、即今ただいま、永遠の命を得、イエスの喜びと寸分違わぬ喜び(ヨハネ17:13)を手に入れることができると言うのである。
しかし『救世主の再臨』を『世界最終戦争』に結びつけた『黙示録』の預言は、著者の意図とは裏腹に一人歩きし、キリスト教とは有縁無縁の少なからぬ新興宗教の誕生や第一次第二次世界大戦の遠因になった。オウム真理教の教祖麻原彰晃(あさはら・しょうこう)、こと松本智津夫(まつもと・ちづお)も一時、黙示録に傾倒、ノストラダムスが預言したとされる世界最終戦争の時期を割り出すため、フランスに赴きノストラダムスの会の代表ミッシェル・ショマラ氏らと会談したとされる。
黙示録執筆のもう一つの理由

なお黙示録はイエスが小アジアの都市ペルガモン/ティアティラ/スミュルナ/サルディス/フィラデルフィア/エフェソス/ラオディキアに存在した7つの教会に対する啓示とされるが、当時はギリシアやイタリアの諸都市に多数の教会が存在したにも関わらずイエスは何故これら7教会に限って啓示したのだろうか。
≪黙示録≫は7つの教会のうち2つの教会において、『ニコラオ派』が行っている活動は、偶像崇拝同様に憎むべき不道徳行為であると断罪している。『ニコラオ派』が如何なる活動をしていたのか、具体的内容は触れられていないが、≪黙示録≫と同じ時期に書かれたと見られる≪ヨハネの手紙一≫には、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。(ヨハネの手紙一4:2-3)」と述べ、≪ヨハネの手紙二≫は「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。(ヨハネの手紙二1:7)」とするとともに、「この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである(ヨハネの手紙二1:10-11)」と、この種の信者とは断交するよう求めている。
対照的に、パウロは、『コリント信徒への手紙二』の中で「ですからわたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。たとえ肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(コリント二5:16)と述べ、さらに『ガラテヤ信徒への手紙』の中で、「自分が伝える福音は、生前のイエス本人から教えられたものでもなければ、イエスの直弟子からでもなく、パウロ自身の内に蘇った復活のイエスから伝えられたものである(ガラ1:11-12)」とし、「彼ら(小ヤコブ、ペテロ、ヨハネ等エルサレム教会の重立った人々)がどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない(ガラ2:6)」と言い切っている。
どうやら、≪黙示録≫や≪第一、第二ヨハネの手紙≫の筆者は、肉体をもった生前のイエスの教えを軽視する、したがってまた生前のイエスを知る十二使徒を初めとする直弟子を蔑ろにするグループの台頭に脅威を抱き、こうした信者と手を切るよう求めたものと見られる。
雲岩の路絶えんと欲す

さて、中国唐代の後期、病を得た曹洞宗の開祖洞山良价(とうざん・りょうかい:807-869)禅師は、一人の沙弥(しゃみ:若い僧)に、一番弟子の雲居道膺(うんご・どうよう:830-902)禅師に、その事を知らせるよう命じた。洞山は、その際、沙弥に「もし雲居に伝言の趣旨を尋ねられたら、ただ『雲岩の路(みち)絶えんと欲す』とだけ答えろ」と教え、さらに「口上を述べたら直ぐに雲居から離れろ、恐らくあいつはお前を打ちのめすだろう」と注意した。沙弥は言われた通り、雲居の下に赴き、伝言したが、避ける間もなく、一棒を食らった。しかし沙弥は言葉を発しなかったと言う。
『雲岩の路絶えんと欲す』の『雲岩』とは、雲岩曇晟(うんがん・どんじょう782-841)禅師のことで、曹洞宗に世々代々伝えられる『宝鏡三昧(ほうきょうざんまい』の著者であり、洞山の師匠。
雲居道膺禅師について、日本曹洞宗の開祖道元禅師(1200-1253)は、その著『正法眼蔵:仏道の巻』において「曹洞宗の称は、曹山を称じ加ふるならん。もししかあらば、雲居・同安をも加え載すべきなり。雲居は人中天上の導師なり、曹山よりも尊崇なり。はかりしりぬ、この曹洞の称は、傍輩の臭皮袋、おのれに斉肩ならんとて、曹洞宗の称を称するなり」と述べ、雲居は曹山本寂(そうざん・ほんじゃく:840-901)禅師よりも優れていると持ち上げている。雲居とその嫡嗣同安道丕(どうあん・どうひ:?-905)禅師の系統に属する道元禅師の評価としては頷けるとしても、『曹洞宗と言う呼称は、傍流の曹山派が主流の雲居派に比肩しようとして立てた臭皮袋(糞袋)だ』と言うに至っては穏やかでない。
ところで、この『洞山-沙弥-雲居』の一連の商量には、不可解な点がいくつかある。第1に洞山は何故『雲岩の路絶えんと欲す』などと言う伝言をしたのか。第2に洞山は雲居が沙弥を打ちのめすことを知っていた。第3に何故沙弥は打ちのめされねばならなかったのか。第4に沙弥は、打たれることを知っていながら甘受し、一言も言葉を発しなかったのか。
考えられる一つの答えは、沙弥は曹山本寂禅師その人だったと言うこと。つまり洞山は、この時点で既に曹山を江西省新豊山(現在の江西省宜豊県太平郷)洞山寺の宗門後継者とする方針を決めており、雲居もそのことを知っていた。洞山が没した西暦869年時点で、洞山は満62歳、雲居は39歳、曹山は29歳だったと見られ、後継者としては雲居より若い曹山の方が長期的に適任と考えられたとしても不思議はない。実際には曹山は雲居より1年早く死んだようだが。しかし、曹山は依然としてこの大役を引き受けるには力不足の感が否めなかったのだろう。そこで洞山は、曹山に『雲岩の路絶えんと欲す』と言う伝言を託しただけでなく、「お前がそんなことを言えば、雲居は必ずお前をぶん殴るぞ、覚悟して行け」と付言した。これでは逃げようがない。逃げれば、洞山の後継者になることを、自ら放棄したことになる。だから曹山は雲居に殴られるままに任せ、一言も言葉を発しなかったのだろう。
閑名/法号

さて、いよいよ死期の近いことを悟った洞山は、ある日弟子達に「自分は間もなくこの世を去るが、わしのために閑名(かんめい:実体のない名称)を消し去る者はいないか」と問うた。
人間が五官を通じて感知する個々の事象は諸因と諸縁の連鎖により生滅する運動の一過程に仮に付けられた名称に過ぎないから仮名(けみょう)である。インドのナーガールジュナ(龍樹菩薩:150?-250?)はその著『中論』の中で「因縁所生の法、我すなわちこれ空と説く。またこれを仮名と為す。またこれ中道の義なり」と述べ、個々の事象や事物を貫通する普遍性に依拠した真諦、中道を説いた。中国の魏晋南北朝時代(220-589)に天台宗を開いた慧文(550-577)は、この一節を読んで直ちに空、仮、中の三つの真理を悟り、「これら三諦-空、仮、中-は、互いに浸潤しあい、完璧に和合し、統合している。これら三諦は別個のものと認識してはならず、完璧に和合した三層からなる真理と見なさねばならない」と説明した。
だから洞山は「俺が死んだら『洞山良价』などと言う名は、実体のないの無い閑名に過ぎない。ほっておけば、一人歩きし、後世に禍根を残す恐れがある。誰か俺の為に消し去ってくれないか」と問いかけたのである。日本を代表する禅僧、一休宗純(いっきゅうそうじゅん:1394-1481)も、「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」と言う狂歌を詠んでいる。
居並ぶ弟子達は、誰も臆して答える者がなかったが、しばらくして一人の沙弥が「洞山良价が現世の仮名に過ぎないと言うなら、時空を超越した絶対の真理を現す法号は何か」と突っ込んだ。すると洞山は「でかした俺の閑名はもう消え去ったぞ」と満悦のようすだった。この沙弥も曹山ではなかったろうか。もしそうなら洞山が上機嫌だったのも頷ける。洞山はさらに「此の殻漏子(がいろうし:抜け殻)を離れて什麼(いずれ)の処(ところ)に向かってか吾と相見(あいまみ)ゆ」と問うたが、これには誰も答えなかったと言う。
労生息死

唐の咸通十年(西暦869年)三月、洞山は剃髪披衣(ていはつひい:髪を剃り、衣に手を通さずうち掛ける)し、鐘(かね)を撞かせ、坐化(ざか:坐ったまま死ぬ)した。大衆は大いに悲しみ慟哭した。すると死んだはずの洞山が突然カッと目を開き、「夫(そ)れ出家の人、心(こころ)物を付(ふ)せず。是(これ)ぞ真の修行なり。労生息死(ろうせいそくし:生きて働き死だら休む)、悲(ひ)何(いずれ)にか有らん」と一場の講話を垂れ、恋情(れんじょう)を蓋責(がいせき:責める)した。しかし大衆は依然として恋慕(れんぼ)して已(や)まず、七日間泣き続けた。このため洞山は斎畢(さいひつ:斎儀の終わり)に際して「僧家(そうけ)は,事(こと)は大率(おおむね)臨行之際(りんぎょうのさい:行動する時)喧動(けんどう:ざわめく)如斯(かくのごとく)する勿(なか)れ」、つまり「大仰な告別はたくさんだ。これではやかましくて死ぬにも死に切れん、禅僧らしくしろ」と再度戒めた。
こうして八日目に沐浴の儀式が執り行われ、洞山は終に端坐長往(たんざちょうおう:坐ったまま永眠)した。享年六十三歳、臘(ろう:出家成道)年四十二歳。塔婆(とうば)名は慧覚(えかく)。悟本大師(ごほんだいし)と勅諡(ちょくし:皇帝が賜るおくりな)されたと言う。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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【参照】
《景徳伝灯録第十五巻》
師、示疾(ししつ:発病)、沙弥(しゃみ:若い僧)に令して去らしめ、雲居に伝語(でんご)す。又曰く、「他(かれ)忽(にわか)に汝(なんじ)に『和尚何の言句か有りや』と問わば、但(ただ)『雲岩の路(みち)絶えんと欲する也』と道(い)え。汝此の語を下(くだ)すおり、須(すべから)く遠く立て。恐らく他(かれ)汝を打ち去らん。」
沙弥旨(むね)を領(りょう)して去る。語未だ終わらざるに、早くも雲居に打つこと一棒を被る。
沙弥語無し。
師将(まさ)に円寂するにおよび衆に謂いて曰く、「吾(われ)在世に閑名(かんめい:実体のない名称)有り、誰か吾が為に除き得るや」
衆皆対する無し。時に沙弥(若い僧)出でて曰く、「和尚に法号を請う。」
師曰く、「吾が閑名已に謝(しゃ)せり。」師又曰く、「此の殻漏子(がいろうし)を離れて什麼(いずれ)の処(ところ)に向かってか吾と相見(あいまみ)ゆ。」
衆対する無し。
唐の咸通(かんつう)十年三月、剃髪(ていはつ)披衣(ひい:衣に手を通さずにうち掛ける)を命じ、鐘(しょう)を撃(う)たせ厳然(げんぜん)として坐化(ざか;坐ったまま死ぬ)す。
時に大衆号慟(ごうどう:慟哭)移晷(いぐい:しばらくのあいだ)。
師忽(たちまち:突然)目を開き而して起曰(きはく:話し始める)す。「夫(そ)れ出家の人、心(こころ)物を付(ふ)せず。是(これ)ぞ真の修行なり。労生息死(ろうせいそくし:生きて働き死だら休む)、悲(ひ)何(いずこ)にか有らん。」
乃(すなわ)ち主事僧(主事を務める僧)を召(め)し愚痴(ぐち:無知蒙昧の徒)を辨じ一中(いっちゅう:中央)に斉(せい:整列)し、其(そ)の恋情(れんじょう)を蓋責(がいせき:責める)するなり。
衆(しゅう)猶(なお)恋慕(れんぼ)して已(や)まざること延(えん)じて七日に至り、食を具し、方(まさ)に備(そな)ゆ。
師亦(また)斎畢(さいひつ:斎儀の終わり)に随(のぞ)みて曰く、「僧家(そうけ)は,事(こと)は大率(おおむね)臨行之際(りんぎょうのさい:行動する時)喧動(けんどう:ざわめく)如斯(かくのごとく)する勿(なか)れ。」
八日に至り、浴(よく)し訖(おわ)り、端坐長往(たんざちょうおう:坐ったまま永眠)す。寿(じゅ)六十有三。臘(ろう:得度)四十二。悟本大師(ごほんだいし)と勅諡(ちょくし)さる。塔(とう)して曰く慧覚(えかく)。

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