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書評:聖霊のバプテスマ(耳有る者は聞くがよい)
 イエスが言った、「ある金持ちが多くの財産を持っていた。彼は言った『私は私の財産を利用して、撒き、刈り、植えて、私の倉を作物で一杯にしよう。如何なる欠乏にも悩まされることがないためである』。これが彼の心の中で考えたことである。そして、その夜彼は死んだ。聞く耳あるものは聞くがよい。(トマス63)」

多くの財産を保持する一人の金持ちが、その財産を運用して倉を一杯にしようと考えたが、その晩彼は死んでしまった。よく有る話だが、トマス福音書のイエスは、何の謎解きもせず、それだけ語り、「聞く耳あるものは聞くがよい」と結んでいる。
『聞く耳あるものは聞くがよい』と言うフレーズは、イエスの常套語で、トマス福音書では6度、マルコ福音書とマタイ福音書では3度、ルカ福音書では2度用いられている。このフレーズには、イエスの布教の姿勢が反映されている。イエスは誰に対しても平等にその教えを説くが、教えを理解できるかどうかは、聞く耳を持っているか否かにかかっている。『種まき』の譬え(マルコ4:3-8/マタイ13:3-8/ルカ8:5-8/トマス9)のように、よく耕された土壌に落ちた種は30倍-100倍の実を結ぶが、道端や岩地、茨の中に落ちた種は鳥に食べられたり、日に照らされたり、あるいは茨にふさがれて枯れてしまう。
唯仏与仏乃能究尽

洗礼者ヨハネの証しによれば、「イエスはその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである、神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである(ヨハネ3:32-34)。」つまり「イエスは天上の言葉を語るが地上の人間には理解できない。それが理解できるのはイエスと同様に全き神を覚知したものだけ」と言うのである、換言すれば、イエスが説いたものは、禅家の所謂『ただ仏が仏に与える教え(法華経方便品:唯仏与仏)』と言うことだ。聖霊は本来人々(にんにん)の分上に豊かに備わっている。だからイエスは何も与える必要はない。本人がそれに目覚めるだけのことである。これこそ『聖霊のバプテスマ』の真髄である。
日本曹洞宗の開祖道元禅師も、≪正法眼蔵弁道話≫の中で「この法は、人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」と述べている。
戦前戦後を通じて活躍した昭和を代表する日本曹洞宗の師家、澤木興道老師は、「生死を仏道に変えるのが坐禅、『一超直入如来地』だ。坐禅は三界の法じゃない、仏祖の法だ。仏法は仏と仏の商量、仏と凡夫の商量じゃない。だから唯仏与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうくじん)と言う。仏と仏が相思い、正身端座(しょうしんたんざ)する時、現成(げんじょう)するものだ」と説かれたと言う。
ルカ福音書の平行記事

イエスに代わって少々謎解きを試みるなら、『出発点に立った時点で、ゴールの喜びを享受することができる真の知恵者は、目標に到達する前に倒れても、喩えそれが出発点に立った1秒後でも、悔いることがない』と言うことか。トマス福音書第63節は、ルカ福音書第12章16-21節に平行記事が存在することから、ルカの謎解きも参照されたら良いだろう。とは言え、イエスの『聖霊のバプテスマ』は、バプテスマを受ける本人が自ら答えを見いだす他ない。
禅宗においても、学人が入室参禅(にっしつさんぜん)して他人の見解(けんげ)の口まねなどすれば、棒喝(ぼうかつ)を喫するのが落ちである。とは言え不立文字(ふりゅうもんじ)を標榜する禅宗には、無門関48則や碧巌録100則の他、多くの公案録が残されており、看話(かんわ)禅と評される臨済宗のみならず、黙照(もくしょう)禅を標榜する曹洞宗においても究尽(くじん)されている。師家の棒喝が悟りの因縁になる場合も多々あることから、試して看るのも好いかもしれない。
新約聖書のグレコローマン起源

さてメソポタミアからエジプトに至る地域を往来する遊牧民の諸部族が、単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合を組織して、パレスチナの農耕先住民の支配を覆した国造り神話が、エデンの園やノアの洪水を彷彿とさせるティムルン島の楽園やバビロニアの洪水伝説に代表される古代シュメール神話に接ぎ木され、ヘブライ語版の旧約聖書が成立したとすれば、自らをアブラハムの家系図に接ぎ木されたと位置づける異邦人キリスト教徒(非ユダヤ人)のための新たな救済契約とされるギリシア語版新約聖書の成立には、グレコローマン文化が大きく影響したことが窺える。
聖霊のバプテスマに色濃いギリシア哲学の影響

洗礼者ヨハネが「わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう(マルコ1:8)」、「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう(ルカ3:16/マタイ3:11)」と説き、イエスが「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない(ヨハネ3:5)」、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである(ヨハネ3:8)」と説き明かした『聖霊のバプテスマ』には、『万物の根源』は、それぞれ『水』、『火』、『火・空気・水・土』と説いたギリシアの哲学者タレス、ヘラクレイトス、エンペドクレスの思想が色濃く反映されている。
またイエスはヨハネ福音書において「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である(ヨハネ6:63)」と説き、トマス福音書においては「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう(トマス77)」と説いている。パウロも「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません(ローマ8:9)」と述べている。
これらの教えは、この世を人間の五官により捉えられる『物質界』と理性によって捉えられる『イデア界』に分割し、時々刻々変化する『物質界』は、本質としてのイデアの影に過ぎないと説いたプラトンの二元論や本質としての『形相』は『質量(個々の事物)』に内在していると説いたアリストテレスのヒロモルフィズム(質料形相論)を受け継いだものと言える。
さらにトマス福音書を初めとするグノーシス福音書は、概ねイエスと弟子達の問答形式で綴られているが、これも「徳について日々問答することが、人間にとって最大の善であり、吟味されない生は、生きるに値しない(ソクラテスの弁明38a 1-6)」と説いたソクラテスの教えを踏襲している。
教会運動の震源地ローマ

他方、パウロがローマに到着した西暦59年頃、同地にはすでに異邦人ユダヤ教徒の強固なコミュニティーが存在し、パウロが説く『モーセの律法に依らず、信仰によって義と認められるイエスの道(ローマ3:28)』を受け入れやすい環境が整っていた。
クラウディウス帝は西暦49年に、全てのユダヤ人にローマ市内から退去するよう命じたが、ユダヤ人のローマ市内からの追放は、これ以前にも少なくとも2回行われており、早くも紀元前139年に過度な布教活動を理由に追放令が発せられた。そして西暦19年にもティベリウス帝が同様の理由でユダヤ人を市外に追放している。しかしパウロがローマに到着した頃、ローマには依然として強固なユダヤ教徒のコミュニティーが存在していた。おそらくこうしたユダヤ教徒の大多数は異邦人、言い換えれば未割礼のユダヤ教徒だったものと見られる。つまり、パウロがエルサレムで行ったヘブライストとヘレニストの棲み分けの真逆の実験がローマでは過去188年間に少なくとも3度行われ、エルサレムに純粋なヘブライストのキリスト教会が誕生したように、ローマにはヘレニストのユダヤ教徒コミュニティーが出現したものと見られる。言い換えれば、イエスやパウロ、さらにはマケドニア人のルカやキプロス島出身のバルナバが誕生するはるか以前から、ローマには、教会運動の母体になる下地が醸成されていたのである。こうしてパウロやペテロの死後間もなく、あるいは生前にすでに教会運動の中心はエルサレムから、ルカらが活動したギリシアでも、ギリシア語版聖書が編纂されたアレキサンドリアでもない、ローマに移り、イエスの死後間もない1世紀後半には、クレメンス等のローマ司教がコリントス等の教会に起きた紛争の調停役を果たしていたものと見られる。
臨済悟道の因縁

幼い頃から出塵の志を抱き、黄檗寺(現在の江西省宜豊県黄崗郷)で剃髪具戒した臨済宗の開祖臨済義玄(りんざいぎげん?-867)禅師は、初めて入室参禅(にっしつさんぜん)した際、「達磨大師は一体何のためにはるばるインドから中国にやって来たのか」と黄檗希運(おうばくきうん?-855)禅師に問うた。
黄檗は、聞き終わらぬうちに手杖(しゅじょう)でしたたかにぶん殴った。義玄は三回入室したが、その度びにぶん殴られた。すっかり悄気(しょげ)返った義玄は、「黄檗寺に見切りを付け、他の師家を訪ねて見ようと思う」と、首座をつとめる兄弟子に打ち明けた。
首座は「自分の愚鈍を恨まず、別の師家を探しに行くと言うのか」と呆れたが、黄檗に「義玄は新参とは言え、見所も在るため、何かアドバイスしてやって欲しい」と言上した。そこで黄檗は、暇乞いに来た義玄に高安城灘頭(現在の江西省高安市)大愚寺の大愚和尚を訪ねるよう指示した。
大愚は訪れた羲玄に「どこから来た」と聞いた。羲玄が「黄檗山から来た」と答えると、大愚は「黄檗は何か言ったか」と尋ねた。羲玄は「祖師西来意(そしさいらいい)を問うたら殴られた。三度入室したが、三度とも殴られた。どこに落ち度があったのか分からない」と正直に打ち明けた。

すると大愚は「黄檗の老婆心は底抜けだな。これほど懇切丁寧な導きを受けながら、まだ『どこが間違っていたのか分からない』などと泣きごとを言うのか」と問い返した。
羲玄はこの時大悟し、「仏法など、元来大したことはない」と言った。すると大愚は羲玄の襟首を掴み「たった今『どこが間違っていたのか分からない』などと泣きごとを言いながら、今度はぬけぬけと『仏法は、元来大したことはない』などと言うお前は一体何様だ」と詰った。
羲玄は襟首を掴まれながら、あいている手で大愚の肋骨の辺りを一突きした。大愚はたまらず羲玄を突き放すと「お前の師匠は黄檗だ。ワシとは関係ない」と言った。
結局羲玄は黄檗寺に舞い戻った。すると黄檗は「何だもう戻って来たのか、早すぎるじゃ無いか」と詰った。羲玄は「それもこれも老婆心のためならん」と応じた。黄檗は「今度会った折りに大愚老漢に一棒を食らわしてやろう」と言った。すると羲玄禅師は「今度会うまで待つことはない」と言うが早いか、黄檗に一掌(いっしょう)を与えた。黄檗は呵々大笑したと言う(景徳伝灯録)。<以下次号>
【参照】
《景徳伝灯録》

鎮州臨済羲玄禅師は曹州南華の人なり。姓は邢氏、幼くして出塵の志を負い、すなわち落髪進具(らくはつしんぐ:剃髪して具足戒を受ける)して禅宗を慕う。初め黄檗(山)に在りて衆に随い参侍(さんじ)す。
時に堂中の第一座問話(もんわ)を勉令(べんれい)す。師(臨済羲玄)すなわち問う。「如何なるか是れ西来の的意(てきい:真髄)。」黄檗便(すなわ)ち打つ。是(かく)の如く三問(さんもん)し三遭打(さんそうだ:三度打たれる)す。
遂に辞を告げんとす。第一座云(いわ)く「早(つと)に激動を承じて話を問わんに、唯だ和尚の賜棒(しぼう)を蒙(こうむ)り、愚魯(ぐろ)を恨まん所、且(かえ)て諸方に往(むか)って行脚(あんぎゃ)去らんか。」
上座(じょうざ)遂に黄檗に告げて云く、「羲玄は后生(ごせい:若僧)と雖も、却(かえ)って甚だ奇特(きとく:優秀)。来たり辞する時、願わくば和尚更に誘(しゅう:導き)を垂提(すいてい:賜る)せん。」
日来(きた)り、師黄檗に辞す。黄檗、大愚(たいぐ)に往(ゆ)くことを指(じ)す。師遂に大愚に参(さん)ず。
愚問うて曰く、「什麼処(いずこ)より来たる。」曰く「黄檗より来たる。」愚曰く「黄檗何の言有りてか教う。」曰く「羲玄親しく西来の的意を問うも、和尚の便打(べんだ)を蒙むる。是(かく)の如く三問(さんもん)し、三転(みたび)被打(うたる)。知らず過ち什麼処(いずこ)に在りや。」
愚曰く「黄檗恁麼(いんも:なんと)老婆(ろうば:老婆心)。汝が為に徹悃(てっこん:まごころ)を得たり。猶(なお)過ち在りやを覓(もと)む。」師於是(ここにおいて)大悟して云(いわ)く「仏法也(また)無多子(たしなし:たいしたことはない)。」
愚乃(すなわ)ち師の衣領(襟首)を搊(つか)みて云く「适来(てきらい:たったいまやって来て)『我(われ)不会(ふえ:分からない)』と道(い)い、而(しこう)して今又『多子無し』と道う。是れ多少来たり、是れ多少来たる(お前は一体どれほどのことが分かったか/何様か)。」
師、愚の肋下(ろか:肋骨の辺り)を打つこと一拳(いっけん)す。愚、托開(たくかい:押しのける)して云く「汝の師は黄檗なり、我が事に非干(かかわらず)。」
師却(かえ)って黄檗に返る。黄檗問うて云く「汝回(かえ)ること太(はなはだ)だ速生(そくせい:速い)なり。師云く「唯だ老婆心の切なるが為なり。」
黄檗云く「遮(こ)の大愚老漢に見(まみ)ゆるを待て、打つこと一頓せん。」師云く「什麼(なん)ぞ見(まみゆ)るを待つと説(い)うぞ。即今便(すなわ)ち打たん。」遂に黄檗に一掌(いっしょう)を鼓(ぐ)す。黄檗哈々大笑す。

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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