『ユダヤ教の誕生と東方伝播(キリスト教の起源)』スライドショー第4話:神輿の東伝
<スライドショー第四話>
ヨルダン川東岸の荒野に居住していた遊牧民十二部族の共同戦線を構築することに成功した古モンゴロイド系遊牧民エフライム族の指導者ヨシュアは、レビ族の祭司たちにモーセの十戒を記した石板を収めた契約の箱を担がせ川岸に立たせた。契約の箱を担いだ祭司たちの足がヨルダン川に一歩踏み込むと、川の水ははるかかなたのザレタンの傍らのアダムの町あたりで堆(うずたか)くせき止められたため、イスラエルの民は乾いた川底を歩いて対岸のエリコにたどり着くことができた。(ヨシュア記3:9-17)。
こうしてヨシュアは、首尾よく西岸の農業都市国家を制圧、イスラエルの十二部族がヨルダン川東西両岸を支配する時代が到来した。
神輿文化の東伝
エフライム族やマナセ族と同じ
『Y染色体D2』遺伝子を保持する古モンゴロイド系先住民の縄文人が、1億6500年前から住んでいた日本列島には、古代イスラエル王国が誕生する以前から中東地域と極東地域の間を往来する古モンゴロイド系遊牧民が渡来し交流していたものと見られる。
イスラエル日本学会名誉会長を務めるヘブライ大学のベン=アミー・シロニー(Ben-Ami Shillony)名誉教授によると、日本人が神輿(みこし)を担ぐ際にかける『ワッショイ』や『ヨイショ』と言ったかけ声には、それぞれ『神が来た』、『神が助けて下さる』と言う意味があり、相撲甚句に登場する『ドスコイ』は『踏み落とせ』、相撲の行司が用いる『ハッケヨイノコッタ』は、「ハッケ(撃て)ヨイ(やつけろ)ノコッタ(打ち破れ)」と言う意味になると言う。日本語とヘブライ語には、このように『発音』と『意味』が類似する語彙が多数存在し、別表の例はほんの一部で、数え上げれば500は下らないと言う。
どうやら、神輿文化は、契約の箱に起源を発し、エフライム族とマナセ族により日本列島にもたらされたようだ。
エルサレム神殿と諏訪大社
日本キリスト教団池袋キリスト教会初代牧師を務めたプロテスタント系聖書解説者久保有政氏によると、古代イスラエルの神殿は、エルサレムのモリヤの丘に建てられ、ヤハウェは『モリヤの神』と呼ばれていたが、長野県の諏訪市と伊那市の境に位置する標高1651メートルの守屋山の麓に建てられた諏訪神社は、丁未の乱に敗れた物部守屋(もののべのもりや)ゆかりのモリヤ一族により祭られて来た。
物部氏の出自
物部氏は天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)が、北九州筑紫の高千穂峰に降臨する以前に、近畿地方に第一次大和王朝を建てたもう一人の天孫、饒速日尊(にぎはやひのみこと)と登美夜毘売(とみやびめ古事記/三炊屋媛ミカシキヤヒメ日本書紀)の間に生まれた宇摩志麻遅命(うましまでのみこと古事記/可美真手命ウマシマデノミコト日本書紀)を始祖とし、北九州の朝鮮系豪族(磐井?)の東征将軍、神武天皇が第一次大和政権を接収し、第二次大和政権を樹立した後は、鉄器と兵器の製造・管理を管掌する有力な軍事氏族になったとされる。しかし、仏教が伝来した際、これを保護した朝鮮系有力豪族の蘇我氏との戦いに敗れ、大和朝廷における地位を失墜した。
公地公民制と律令制
公地公民制と律令政治を二本の柱とし、天皇親政を標榜する君主制を樹立した大和王朝は、平安京が完成した第五十代桓武天皇(かんむてんのう在位781-806)の時代に全盛期を迎えた。しかし平安京の造成や度重なる軍事遠征(蝦夷征伐)が百姓の負担を高めているとの藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の建言により、いずれも中断したため、朝廷の軍事力は失われ、三世一身法や墾田永年私財法の導入により公地公民制も骨抜きになった。こうしてほとんど無政府状態に陥った地方には平氏や源氏等の武士勢力が台頭した。
鎌倉幕府と神輿政治
大和朝廷により蝦夷討伐の尖兵として北方に送り込まれた屯田兵は現地住民と同化し武士集団を形成、徐々に勢力を拡大したが、その際、天皇家の血筋を引く源氏や平氏の指導者を頭領に担ぎ上げた。それ自身の常備軍を失った大和朝廷もこれらの武士集団を地方統治の手段として利用した。
これが関東地方を根城とする板東武者の起源と見られる。源頼朝は、京都公家の支配に反抗した平将門以来の板東武者の神輿として担ぎ上げられたが、担ぎ手の多くは、平家一門に属していた。源平の戦いを制した源頼朝が京都の朝廷に拮抗する幕府を鎌倉に設けると、その後数百年にわたる二重権力の日本国体が現出した。
鎌倉幕府の実権は当初から平氏出身の北条氏に握られ、源頼朝の血筋は僅か三代で絶えた。それ以降は京都から源氏の縁戚の公家が名目的な征夷大将軍に据えられ、当初導入された13人の有力御家人の合議制も一掃され、北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)が執権職を独占した。ちなみに得宗は二代執権北条義時の法号。
地政学的意味
鎌倉幕府の誕生は、表面的には源頼朝が源平の合戦に勝利した結果のように見えるが、その実、弥生系南方移民が縄文系北方移民(蝦夷)を征服し、政治文化の中心が北九州から近畿、そして関東へと移動した、神武東征以来の地政学的変化を反映していると言えそうだ。
鎌倉幕府は1185年から1333年まで148年間存続、源頼朝を模範に江戸(東京)に幕府を開いた徳川政権は1603年から1867年まで264年間続き、京都における公家の名目的統治と江戸における武家の実質的支配が併存する二重権力体制が定着した。
長篠の戦い
天正3年5月21日(1575年6月29日)、織田信長と徳川家康の連合軍3万8000人と武田勝頼率いる1万5000人による長篠の戦い(ながしののたたかい)は、織田方の3000丁の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を壊滅させ、戦国時代終息の転機になった。
明治大学経済学部の飯田泰之教授によると、その実、武田方も織田軍に匹敵する鉄砲隊を保持していたと言う。しかし当時火薬や弾丸の原料になる硝石や鉛は輸入に依存しており、海から隔絶された甲斐を拠点にする武田軍は十分な火薬や弾丸を手に入れることができなかった。彼等は銅銭を鋳つぶして弾丸を製造するとともに、極力無駄弾を打つ事を避け、騎馬戦術に頼らざるを得なかった。
これに対して貿易・商業都市の堺や大阪に隣接した美濃を拠点に、琵琶湖や淀川の水運も利用し、早くから中国や東南アジア、そして欧州にまで通じるサプライチェーンの構築に取り組んできた織田信長は、物量にものを言わせた野戦をしかけ、武田の騎馬軍団を壊滅させた。
エフライム族とマナセ族の骨肉の争いの再演?
ちなみに武田勝頼は、最強の戦国武将と称された武田信玄と諏訪神社の宮司の娘の間に生まれたことから、幼名を諏訪四郎勝頼と言った。つまり勝頼は、北九州拠点の朝鮮系豪族の東征将軍神武天皇以前に近畿地方に第一次大和王朝を建てた饒速日尊の血筋で、エフライム族の子孫であったものと見られる。
他方、織田信長は高天原から筑紫日向の高千穂峰に降臨した天孫邇邇藝命(てんそんににぎのみこと)に付き随った天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖とする忌部氏に連なる神官の家系に属し、朝鮮半島を経由して渡来したマナセ族の末裔と見られる。
もしそうなら、長篠の戦いは、エフライム族とマナセ族の骨肉の争いの再演と言えそうだ。長篠合戦屏風には白馬にまたがる信長とダビデの星の陣羽織を纏った忌部氏家臣団が描かれている。
旧約士師記によれば、ヨシュアの死後、ギレアド人の指導者エフタが士師の座につくと、ヨルダン川の東岸ギレアドでマナセ族とエフライム族の骨肉の争いが生じ、西岸に逃げ帰ろうとするエフライム族4万2000人がヨルダン川の渡しで殺害された(士12:6)。
グローバリズムからナショナリズムへ
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、織田信長は腹心の明智光秀が起こしたクーデター(
本能寺の変)により自害したが、信長が構築したサプライチェーンとグローバリズム路線は、やはり信長の腹心で光秀のライバルだった豊臣秀吉に引き継がれた。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いと大阪夏の陣/冬の陣により豊臣家を断絶させた徳川家康は、信長が構築した国内のサプライチェーンは一層充実させたものの、ナショナリズム路線に舵を切り、鎖国政策を導入した。
神輿は軽くてパーがいい
明治維新により京都御所が東京に移されたことから、地政学的二重権力構造は解消されたが、神輿政治の伝統、そして
ナショナリズムとグローバリズムの内的確執は、明治憲法下にも、戦後の新憲法下にも維持された。
海部内閣(1989.8.10~1991.11.5)時代に小沢一郎自民党幹事長の側近だった平野貞夫元参議院議員(1935-)によると、同氏が海部内閣のブレーンも務めた毎日新聞の某記者と痛飲した際、「神輿は軽くてパーがいい」と軽口をたたいた。くだんの記者は、平野氏の発言では重みが無いため、あたかも小沢幹事長の発言のように粉飾した報道を行い、政局が動揺した。平野氏は、小沢氏に自分(平野氏)の発言であると訂正するよう進言したが、小沢氏は不問に付したと言う。そんなこともあって海部内閣は倒壊したが、小沢氏はその後、自民党を離党し、新生党、新進党、自由党、民主党、国民の生活が第一党、日本未来の党、生活の党、生活の党と山本太郎となかまたち、国民民主党、立憲民主党の立ち上げや鳩山民主党政権の発足にも主要な役割を担ったとされる。
M資金
極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として死刑判決を受けた第40代日本国総理大臣東条英機が処刑された翌日、即ち1948年12月24日、やはりA級戦犯容疑者だった岸信介、笹川良一、児玉誉士夫の三人が巣鴨拘置所を出所した。これら三人はその後手を携えて戦後の日本政界を牛耳った。
城西国際大学大学院人文科学研究科講師の元外交官孫崎亨(まごさき うける1943-)氏によると、この三人に共通するのは旧満州国の利権(麻薬資金)であり、同利権を米国中央情報局(CIA)の反共活動に充当することを条件に釈放されたものと見られる。
東京地検特捜部
鳩山由紀夫元首相が設立した東アジア共同体研究所の所長をつとめる孫崎氏が末期癌の宣告を受けた友人(某大学教員)の話として語ったところによれば、終戦直後、CIAの先兵として東京地検特捜部が手がけた隠匿物資の摘発の中心もまた麻薬だった。戦後日本の民主化に充当されたM資金(マッカサー資金)の原資は、麻薬資金であり、米国CIAと東京地検特捜部の密接なつながりは、このころに培われた伝統と言う。
陰謀論はとらない:波頭氏
安倍晋三元首相が凶弾に倒れた後、旧統一教会や東京五輪汚職に絡み、日本政財界の大物が東京地検特捜部に相次いで摘発され、日本政財界に激震が走った。
東アジア共同体研究所理事を務める茂木健一郎氏と波頭亮氏の対談番組『安倍元首相銃撃事件を振り返って、日本が失った社会インフラ「国民の良識」、絶望の隠蔽体質』の中で茂木氏が、「山上さんの犯行はあまりにもうまく行きすぎたじゃないですか。あれで陰謀論とか言う人もいるんですが、どうですか、そのあたり」と疑問を呈すると、波頭氏は「僕は陰謀論はとらない」としながらも「あれを防げなかったのは、何かあったんですかね」、「ああゆうタイプの犯罪ってあんまりない」、「これはちょっと、”エーッ”と思いましたね」と語った。
中国唐王朝の中頃、六祖慧能(えのう)禅師の法を嗣ぎ河南省南陽白崖山党子谷の寺に40年間住持した南陽慧忠(なんよう・えちゅう)禅師は、西暦761年、唐朝第10代皇帝粛宗(しゅくそう)の勅命を受け長安に上り、宮廷に参内した。
父玄宗(げんそう)皇帝の時代に発生した安禄山(あんろくざん)史思明(ししめい)の乱により、潰走した朝廷軍により、皇帝に擁立された粛宗は、何とか首都長安を奪還したものの、依然として反乱軍が各地に割拠している最中のことだった。
慧忠国師が宮中の正殿にのぼるや、待ちかねた粛宗皇帝は、直ちに「仏は、臨機応変に衆生を済度する『十身調御(じつしんちょうご)』の術(すべ)を心得ておられるそうですが、是非その極意をお示し頂きたい」と請うた。
外戚や宦官が跳梁する中で、勝手に軍を動かした異母弟の討伐や塩の専売制を通じた財政立て直しに腐心する粛宗のこの問いが、並大抵のものでないことは、慧忠国師も熟知していたに違いない。しかしその答えは、粛宗の予想を遙かに超えていた。
唐王朝は武則天の治世以来、道教に替えて仏教を内政外交の主軸に据え、仏法僧三宝を手厚く保護していたが、慧忠国師は「毘盧頂上を踏んで行かれよ」と答えた。つまり宇宙を体現する毘盧遮那仏の頭を土足で踏みつけて行けと言うのである。
あっけにとられた粛宗は、「おっしゃる意味が分かりません」と反問した。すると慧忠国師は「清浄法身などに捕らわれなさるな」と付言した。
ウクライナ紛争/台湾有事
これは梁の武帝と達磨の対決同様真剣勝負であり、傍から講釈する余地はないが、敢えて華厳の教義に照らして解釈を試みれば、因縁所生の現世の法(事:特殊性)と個々の特殊性を貫通する普遍性(理)の二軸に立って解決がつかないなら、理と事を止揚する第三の道、中道もあると言うことだろう。毘盧遮那仏を向こうに置いて六根清浄に努めるのもいいが、先ず毘盧遮那仏(宇宙)と一体になり切って見てはどうか。煩雑に絡み合った多くの対立軸が見え、解決策が見いだされるかも知れない。たとえ今解決できなくても何れ決着がつくことが分かるだろう。宇宙が自分なら、その中の一部が勝ち、別の一部が負けようが、自分のことに過ぎない。
これをウクライナ紛争や台湾有事から第三次世界大戦の勃発が懸念される現代に置き換えて見れば、米露EU中印等の指導者のみならず各国の国民一人一人が先ず宇宙人になり切り、つまり宇宙のモーメンタムに同期し、地球にとって、宇宙にとって最善の策を見い出すこと、その後で、その最善策を実現するために米国人としてロシア人として、欧州人として中国人としてインド人として、何ができるかを考えるのも一策だろう。
禾茎粟幹(かけいぞくかん)
中国唐代の禅僧、洞山良价(どうざんりょうかい807-869)禅師に一人の僧が「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の師、法身(ほっしん)の主は何か」と聞いた。
毘盧遮那はサンスクリットで宇宙を意味し、それを体現したのが毘盧遮那仏。また真理の具現として、法身と漢訳される。毘盧遮那仏が師と仰ぎ、法身仏が主人として仕えるような本来の面目(本来の自己)を出して見せろと言うのである。
この挑戦に対して、洞山は、「ほら、これだ」と言って、手元にあったストローを投げ与えた。《景徳伝灯録》には、『師曰く、禾茎粟幹(かけいぞくかん;稲の茎、粟の幹)』とあり、当時はまだプラスチック製のストローがなかったようだ。
衆数(しゅしゅ)に堕(お)ちず
するとその僧は、「法身、応身(おうじん)、報身(ほうじん)の三身の中で、衆数(しゅしゅ:現世の因果)に堕(お)ちないのは、どれか」と、今度は、教理に照らした回答を求めた。
華厳哲学においては、『法身』は時空を超越した絶対の真理(理)を象徴しており、これに対して『応身』は時空の制限を受ける特殊性(事)の世界に降臨した救世主、実在の仏を意味する。初期の大乗仏教では、法身と応身だけだったようだが、その後ナガールジュナ(龍樹菩薩:150?-250?)が中論を著し、天台宗の開祖慧文(550-577)が空、仮、中『三諦』を説くに及んで、理と事の融合を象徴する『報身』が立てられたらしい。この僧は「三身(さんしん)の中(うち)、阿那(いずれの)身(しん)か衆数(しゅしゅ)に堕ちず」と問うているが、『衆数(しゅしゅ)』は大衆、衆生と同義。つまり「因果応報、生老病死等のこの世の定めから解放されているのはどの身か」と問うた。
ちなみに、日本曹洞宗の開祖道元禅師が著した公案集『真字正法眼蔵(しんじしょうぼうげんぞう)』第五十五則では、くだんの僧は、洞山に「あなたは三身の内のどの身で説法しているのか」と問うている。
吾常に此に於いて切なり
これに対して洞山は、「
吾(われ)常に此(ここ)に於いて切(せつ)なり」。「なかなか好い質問だ。自分も常々思案しているところだ」と応じた。
それから、暫くして、洞山が井戸端で鉢を洗っていると、二羽のカラスが一匹の蛙を捕まえようとして、互いに譲らず凄絶な喧嘩が始まった。折しも上述の僧が通りかかり、「一体どうしてこんな事になったのか」と尋ねた。すると洞山はただ一言、「お前のせいだ」と言った。
つまり、大死一番再活現成して宇宙と一体になった『単独者(Androgyne)』にとっては、井戸端で二羽の烏が蛙を取り合うのも、第三次世界大戦が勃発するのも、皆自分のせいと言うのである。従って法身・応身・報身三身のいずれの身にしろ、一瞬一瞬を、ここが思案のしどころと、薄氷を踏むが如く進まねばならない。
趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん778-897)禅師から「大死底の人活する時如何」と問われた投子大同(とすだいどう819-914)禅師も、「夜行を許さず、明に投`じて須らく到るべし(夜は出歩くな。明るくなるのを待つか、提灯ぐらい持って行け)」と答えている。(碧巖録第四十一則)
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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