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書評:聖霊のバプテスマ(山よ、移れ)

 イエスが言った、「二人の者が同じ家でお互いに平和を保つならば、山に向かって『移れ』と言えば、移るで有ろう」。(トマス48)
イエスが言った、「もしあなたがたが、二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなるであろう。そして、あなたがたが、『山よ、移れ』と言うならば、山は移るでああろう」。(トマス106)
ムハンマド伝説
ムハンマドは、ある日大衆に向かって、「向こうの山を自分の足下に呼び寄せて見せるから、某月某日ここに集まれ」と命じた。そして当日幾多の民衆が彼の周囲に集まった時、ムハンマドは約束通り、向こうの山に向かって大音声で「こっちへ来い」と命じた。しかし山はじっとしたまま動こうとしなかった。そこでムハンマドは、また大声で「こっちへ来い」と命じた。しかし山はやはり動こうとしなかった。ムハンマドはとうとう三度同じ号令をかける羽目になったが、山は微動もしなかった。するとムハンマドは、すまして「どうやら山は来たくないようだ。山が来てくれない以上、自分が山の方へ行くほかない」と言って、スタスタ山に向かって歩き出したと言う。

おそらくムハンマドは景教や東方キリスト教会を通じて≪トマス福音書≫48節や106節さらには≪マタイ福音書≫17章20節の「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」と言うイエスの教えに触れたものと見られる。山が動かぬことは、自明のことで、『山が来てくれない以上、自分が山の方へ行くほかない』ことがイエスの教えの真髄であることを、ムハンマドは大衆の面前で実演して見せたのである。
東京大学中東地域研究センターの杉田英明(すぎたひであき1956-)教授によると、この話は、フランシス・ベイコン(1561-1626)の随想集『The Essays or Counsels Civil and Moral』第三版第12章『大胆について(Of Boldness)』に紹介されており、夏目漱石(1867-1916)もその著『行人』の中で取り上げている。ベイルート・アメリカン大学英語学科学部長(Professor of English and Chairman of the Department of English at AUB)を務めたバイロン・ポーター・スミス(Byron Porter Smith:1889-1955)教授は、その著『英文学の中のイスラム(Islam in English Literature)』の中で『典拠は知られていない』と評していると言う。
悟後の調べ

『行人』の後半は、主人公の二郎と兄嫁の微妙な関係とそれを疑う兄一郎の家庭内の葛藤を軸にした前半の私小説的展開とは打って変わって、一郎とその友人『H』の宗教問答が中心になている。どうやら漱石自身の参禅中の葛藤が反映されているようだ。
日本の臨済系禅門においては、『悟後の調べ』と称して『父母未生以前自己本来の面目』『趙州の無字』と言った公案を通った学人に対して老師(ろうし:禅宗の師家に対する敬称)は、『富士山を灯心で絡げて持って来い』と言った応用問題を課す。つまり『天地と同根、万物と我と一体(肇法師の偈)』の絶対の境地に達したなら、臨済義玄(りんざい・ぎげん?-867)が掲げた主体と客体の遊離の4つの過程に関する『四料簡(しりょうけん)』の理論に照らして、富士山を掌に載せて持ち運ぶことなど造作もないはずと言うのである。漱石も円覚寺で参禅した際、この応用問題を課され、ムハンマドの挿話を思いついたのかも知れない。
ちなみに徳川幕府が定めた寺院諸法度の下、臨済宗の僧侶が師家の資格を得るには数十年をかけて数十の公案を通過せねばならず、各公案を通るごとにこの種の『悟後の調べ』が課されたようだ。
漱石は別の小説『抗夫』の中でポン引きの長蔵に連れられ炭鉱に向かう主人公の青年の口を借りて、恐らく漱石自身の参禅中の葛藤の様子を次のように述懐している。

そのうち路がだんだん登りになる。川はいつしか遠くなる。呼息(いき)が切れる。凸凹はますます烈はげしくなる。耳ががあんと鳴って来た。これが駆落(かけおち)でなくって、遠足なら、よほど前から、何とか文句をならべるんだが、根が自殺の仕損(しそこ)ないから起った自滅の第一着なんだから、苦しくっても、辛(つら)くっても、誰に難題を持ち掛ける訳にも行かない。相手は誰だと云えば、自分よりほかに誰もいやしない。よしいたって、こだわるだけの勇気はない。その上先方(さき)は相手になってくれないほど平気である。すたすた歩いて行く。口さえ利(き)かない。まるで取附端(とっつきは)がない。やむを得ず呼吸(いき)を切らして、耳をがあんと鳴らして、黙って後(あと)から神妙(しんびょう)に尾(つ)いて行く。神妙と云う字は子供の時から覚えていたんだが、神妙の意味を悟ったのはこの時が始めてである。もっともこれが悟り始めの悟りじまいだと笑い話にもなるが、一度悟り出したら、その悟りがだいぶ長い事続いて、ついに鉱山の中で絶高頂に達してしまった。神妙の極に達すると、出るべき涙さえ遠慮して出ないようになる。涙がこぼれるほどだと譬(たとえ)に云うが、涙が出るくらいなら安心なものだ。涙が出るうちは笑う事も出来るにきまってる。

放下着(ほうげじゃく)

さて一郎の妻『直』は学問にばかり打ち込んでいる夫に打ち解けることができないが、弟の二郎には打ち解けることができた。「おれは霊も魂もない女と結婚している」と悩む一郎は、妻の貞操まで疑うようになり、このため二郎は家を出て下宿する羽目になる。二郎の依頼を受けた『H』は「奥さんがよそよそしくするのが気に入らないなら、モハメッドのように自分から近づいたらどうだ。学問だけを生活の心棒とせず、きれいに投げ出したら、楽になれるよ」とアドバイスするが、一郎は「じゃ何を心棒にして生きて行くんだ」と反問する。

『二人の者が同じ家でお互いに平和を保つ』ことがそれほど難しいなら、多民族、多宗教が雑居する一国、あるいは世界の平和を維持することが至難なことは、言うまでもない。『自分が欲するのは女の肉ではないスピリットだ』と述懐する一郎(漱石自身?)が妻に近づくために心棒とする学問も投げ捨てるべきか否か悩んだように、ムハンマドもイスラムのアイデンティティを擲つても平和を実現せねばならない敵に直面し、アダムとイブが分離する以前、ユダヤ教もキリスト教も回教も生まれる以前の原初的統合(propator = original Self)に立ち返る決意を、大衆に表明したのだろう。
『三一妙身』の真髄
日本語版『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏によると、≪トマス福音書≫48節前半の『条件文』は≪マタイ福音書≫18章19節の「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」を想起させ、『帰結文』は≪マタイ福音書≫17章20節の「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」の後半を思い起こさせる。
≪トマス福音書≫106節の『山よ、移れ』も≪マタイ福音書≫17章20節に平行しているが、『二つのものを一つにする』の一句により、48節よりも、『グノーシス化』が強化されている。なぜなら、それは、≪トマス福音書≫22節の『男と女を一つにする』とともに、『御国に入る』条件と見られるからである。そして『あなたがたは人の子らとなるであろう』は、≪トマス福音書≫46節と85節で説かれているように、アダムからイブが分離する以前の原初的両性具有のアダムの子孫になることを意味していると言う。
しかし譬え『二つのものを一つにし』、『男と女が一つになる』原初的統合の実現が御国に至る条件と言っても、48節は、アダムからイブが分離した現世(相対界)においては、平和を保つことが至難なことを暗示している。

古代ユダヤ社会においても夫婦の諍いは絶えなかったようだ。パリサイ人から「何らかの理由で夫がその妻を出すのは差し支えないのか」と問われたイエスは、「あなた方はまだ読んだことがないのか、『創造主は初めから人を男と女とに造られた。それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである 。』彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない(マタイ19:3-6)」と答える一方、「自分は、この世に分裂、火、刀、戦争を投げ込むために来た(トマス16、マタイ10:34-36、ルカ12:51-53)とも説いている。どうやら『大秦景教流行中国碑』に掲げられている『三一妙身』の教義は、トマスがイエスの死後、インドや中国に赴き布教する過程でこの二律背反を止揚したものらしい。<以下次号>
【参照】
≪トマス福音書≫22節
イエスは授乳された小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「この授乳された小さな者たちは、御国に入る人のようなものだ。」彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、御国に入れるのでしょうか。」イエスが彼らに言った、「あなた方が二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなた方が男と女を一人にして、男をおとこでないように、女を女でないようにするならば、あなた方が一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなた方は御国に入るであろう。」
≪トマス福音書≫46節
イエスが言った、「アダムからバプテスマのヨハネに至るまで、女の産んだものの中で、バプテスマのヨハネより大いなる者はいない。ヨハネを見たものは、その両眼がつぶれないように注意しなさい。しかし私は言います。『あなた方の中で小さくなるであろう者が、御国を知り、ヨハネより大いなるものになるであろう』と」。
≪トマス福音書≫85節
イエスが言った、「アダムは大いなる力と大いなる富から成った。そして(それにもかかわらず)、彼はあなたがたにふさわしくならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったなら、彼は死を味わうことがなかったであろうから」。

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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