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書評:聖霊のバプテスマ(アラム語ルーツV)

  イエスが言った、「あなたの目の前にあるものを知りなさい。そうすれば、あなたに隠されているものは、あなたに現されるであろう。なぜなら、隠されているもので、あらわにならないものはないからである。(トマス5)
日本語版『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏によると、3つの≪共観福音書≫の平行記事(マルコ4:22、ルカ8:17 / 12:2、マタイ10:26)は、終末における神の啓示の必然性を予告したものと言える。これに対して≪トマス福音書≫は、文頭に『あなたの目の前にあるものを知りなさい。』の一句を置くことにより、神の啓示をグノーシス的人間論の中に止揚している。すなわち啓示は、人間が『目の前にあるもの』を知ることによって、初めて必然となるのである。『目の前にあるもの』とは『御国』であり、人間の本来的自己支配である。
つまりあなたが、目の前にあるものの中に神の啓示を見い出しさえすれば、キリストの再臨や56億7000万年後の弥勒の来臨を待つまでもなく、苦痛に満ちたこの世に即今ただ今御国が現成する。この世の他に御国も浄土もない。あなたが本来の自己(目の前にあるもの=神の啓示)に目覚めるか否かにかかっていると言うのである。
大和朝廷と出雲王国の相克

2000年4月、島根県の出雲大社の敷地から各直系約3メートルの合計9本の巨大な柱の土台部分が発掘され、嘗て既存の社(やしろ)を遙かに凌ぐ『高層社殿』が存在したことが明らかになった。
出雲大社の宮司千家(せんげ)家に伝わる『金輪造営図(かなわのぞうえいず)』と言う設計図によれば、それぞれ直系1.3メートルの柱3本を金輪で束ねた巨大な9本の柱の上に高さ24メートルの櫓(やぐら)状の構造物が築かれ、その上にさらに高さ24メートルの本殿が設けられ、全長109メートルの階段により地上と結ばれていたらしい。したがって全体の高さは約48メートルになる。発掘された柱跡は年代測定により13世紀のものと確認された。
千家に伝わる別の文献には、出雲大社の高さについて「往古32丈、中古16丈、次に8丈、今は4丈5尺なり」と記されており、もしその通りなら往古(おうこ)の高さは98メートルだったことになる。しかし建設会社大林組がこの巨大柱の遺構が発見される以前の1989年に出版した『古代出雲大社の復元』と題する本の中で、同社の調査チームは木造建築で98メートルの高さを実現するのは無理と述べている。
プロテスタント系聖書解説者の久保有政氏は、伊勢神宮の構造やその行事は古代イスラエルの幕屋やエルサレム神殿に酷似しており、大和朝廷で神事を司った渡来系の忌部氏(いんべし)が伊勢神宮の創建に主要な役割を担ったとし、出雲大社の創建にもやはり朝鮮半島を経由して渡来したユダヤ人が関わった可能性があると指摘する。

ちなみに忌部氏は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受け高天原から筑紫の日向の高千穂峰に降臨した天孫邇邇藝命(てんそんににぎのみこと)に付き随った天太玉命(あめのふとだまのみこと)の末裔で、天児屋命(あめのこやねのみこと)の末裔の中臣氏(なかとみし)とともに大和朝廷の祭祀を司っていた。朝廷における祭祀はその後中臣氏に独占されたが、地方における勢力は維持され、久保氏によると、織田信長や徳島県の後藤田家、三木家も忌部氏の末裔と言う。2005年に徳島で催された第一回全国忌部氏サミットに参集した600人の代表には、徳島県知事後藤田正純(まさずみ)氏も含まれていたと言う。
古事記によると、天照大神の命を受けた建御雷神(たけみかづちのかみ)から出雲国を引き渡すよう求められた大国主命(おおくにぬしのみこと)は、高天原に届くような高層神殿を建てるよう要求したと言う。また日本書紀には斉明天皇5年(659)の項に出雲大社が修復された記事が存在し、「あなた(大国主命)が住むべき天日隅宮(あめのひずみのみや=出雲大社)は、今お造り致しましょう。千尋(ちひろ)もある栲(たく)の縄でしっかりと堅く結び、その宮を造る決まりは、柱は高く太く、板は広く厚くいたしましょう」と記されている。
しかし一体どうして天津神(あまつかみ)の天遜族が、国津神(くにつかみ)のために、伊勢神宮を凌ぐ神殿を、しかも伊勢神宮を建立するはるか以前に、出雲に築いただけでなく、次第に規模は小さくなったにしろ、代々それを修復して来たのだろうか。どうやらこの謎の淵源は、古代イスラエルの建国にまで遡るらしい。
エフライム族とマナセ族の相克

兄弟たちからミディアン人の隊商に奴隷として売り飛ばされ、エジプトに渡った後、エジプト全土を管理する長官(首相?)に出世したアブラハムから数えて4代目のヨセフは、オンの祭司ポティフェラの娘アセナトとの間にマナセとエフライムと言う二人の息子を得た。喜んだヨセフは「神はわたしのすべての難儀を,またわたしの父の全家を忘れさせてくださった」として長子にマナセ(忘却)と名付けた。また「神はわたしを悩みの地で豊かにせられた」とし、次子の名をエフライム(2倍の実り)と名づけた(創41:50-52)。
飢饉の折りヨセフがイスラエルの全一族をエジプトに呼び寄せた際、父ヤコブ(別名イスラエル)は、右手をエフライム、左手をマナセの上に置いて祝福し、年下のエフライムが大いなる者になることを示した(創48:13-20)。モーセが死に臨んでイスラエルの民を祝福した際も、「このような者はエフライムに幾万とあり、またこのような者はマナセに幾千とある(申33:17)」と述べ、マナセ族が比較的小さな役割を担うことを暗示したが、実際には、モーセが死の直前に行った2回目の人口調査では、イスラエルの20歳以上の壮丁60万1730人の内、マナセ族は5万2700人だったのに対し、エフライム族は3万2500人にとどまった(民26:1-51)。
モーセは、ヨルダン川東岸のアモリ人の王シホンとオグを撃ち破った時、西岸の征服にも参加することを条件に奪ったアモリ人の土地をルベン族、ガド族、マナセ族の半分(他の半分は別のどこかに住んでいたらしい)の人々に与えた。ルベン族とガド族は、この戦闘に先立ってモーセにヨルダン川東岸のギレアドにとどまり、西岸の征服には参加するのを望まない意向を表明していた(民32:1-33;34:14,15;申29:7,8)。両部族とマナセ族はすでにギレアドに強固な拠点を築いていたからである。旧約聖書は、これら三部族を彼等が拠点にしたギレアドにちなんでギレアド人(びと)と総称している。

モーセの後継者に指名されたエフライム族のヨシュアは、ヨルダン川西岸に総攻撃を仕掛けるに先立って、ルベン族、ガド族、マナセ半部族に対して、「あなた方の妻子と家畜は東岸の地にとどまるが、勇士は武装して兄弟部族の先頭に立って戦わねばならない、戦いが終わればまた東岸に戻ることができる」と指示した。すると彼等は、「我々はモーセに従ったようにあなたが遣わされるところへは何処へでも行く」と服従を誓った(ヨシ1:12-18)。
こうしてヨシュアはカナンの地を征服した後、分捕った土地をくじ引きで各部族に分かつとともに自らの領地エフライムのシロの地に常設の幕屋を設けたが、ルベン族、ガド族、マナセ半部族は、ヨルダン川東岸の畔に、シロの幕屋を凌ぐ大きくて遠くからも見える祭壇を築いた。他部族はこれを謀反の表明と見、総攻撃を仕掛けようとしたが、祭司エルアザル(アロンの子)は息子のピネハスを、10部族の代表とともに3部族の拠点ギレアドに遣わした。結局3部族は、自分たちの祭壇には動物犠牲を献げないことを誓い、ピネハス他、10部族も同釈明に満足し内戦は未然に防がれた。交渉の過程で、ピネハス他10部族の代表は「ペオルで犯した罪で、なお足りないとするのか(ヨシ22:17)」と糾弾している。『ペオルで犯した罪』とは、モアブ人とミディアン人がペオル山に祭っていた神で、カナン土着のバアル神やモアブ人の主神ケモシュを指すものと見られ(民25:1,3,6,21:29)、どうやらこれら3部族は、カナンの国津神に対する信仰を持っていたようだ。そして彼等は、ヨルダン川西岸シロの幕屋とは、別の祭壇をヨルダン川の東岸に維持し続けた。

ちなみに、モーセの死後、後継者にはレビ族ではなく、エフライム族のヨシュアが選ばれたが、カナン征服後、レビ族には一切恩賞が与えられなかった。このためレビ族は当然ながら自分達にも住む場所と放牧地を配分するよう要求した。結局、各部族は再びくじ引きにより、最終的に48の都市とそれに付属する放牧地をレビ族に再配分した(ヨシ21:1-45)。このことから、モーセの死後、エフライム族がレビ族に代わって指導権を握ったものの、征服地の再配分問題やルベン族、ガド族、マナセ半部族の離反事件を契機に再びアロンの息子エルアザルに率いられるレビ族が復権したことが窺える。このように当初から決して一枚岩ではなかった部族連合はヨシュアの死後、カナンの先住民やフェニキア人、ペリシテ人等の海洋民族を巻き込んだ紛争が絶えない士師時代を迎える。とりわけギレアド人の指導者エフタが士師の座につくと、ヨルダン川の東岸ギレアドでマナセ族とエフライム族の骨肉の争いが生じ、西岸に逃げ帰ろうとするエフライム族4万2000人がヨルダン川の渡しで殺害された(士12:6)。
久保氏は、朝鮮半島を経由して渡来したルベン族、ガド族、マナセ半部族の末裔が出雲大社の創建に関与した可能性を指摘する。だとすれば、出雲の国譲り神話には、マナセ族とエフライム族の骨肉の争いの怨念が反映されているのかもしれない。
丁未の乱

さて≪日本書紀≫によれば、西暦552年、百済の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇(きんめいてんのう)に仏像や経典とともに、仏教の振興を勧める書簡を呈した。但し日本に公式に仏教が伝えられた年代については538年や548年等諸説がある。
欽明天皇は、百済の提案を如何に処理すべきかを群臣に質した。大和朝廷の神事を司る物部氏(もののべし)や中臣氏(なかとみし)は反対したが、渡来人勢力や朝鮮半島との関係の深い蘇我氏(そがし)は仏教の振興に賛成した。朝廷における群臣の意見が二分したため、欽明天皇は自ら仏教に帰依することを断念し、蘇我稲目(いなめ)に仏像を授け私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、これを機に神事を司る物部氏と仏教振興に熱心な蘇我氏の朝廷内における権力闘争が過熱した。
用明天皇(ようめいてんのう)の死後、蘇我馬子(うまこ)と物部守屋(もりや)はそれぞれ欽明天皇の二人の皇子、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と穴穂部皇子(あなほべのみこ)の擁立を図り、武力衝突し、いわゆる丁未の乱(ていびのらん)が生じた。結局蘇我氏の勝利に終わり、泊瀬部皇子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位、物部氏は朝廷から一掃された。蘇我馬子は5年後に崇峻天皇を暗殺し、用明天皇の皇后で、自身の姪に当たる額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を推古天皇として即位させ、推古天皇の甥の厩戸皇子を太子兼摂政とした。
聖徳太子の実像

推古天皇の摂政として実質的に朝廷の運営を引き受けた聖徳太子は景教徒の秦河勝(はたかわかつ)を側近として用い、河勝を通じて全国に神社を建て、儒仏神三位一体の統治実現を目指した。
この時、須佐之男命が建てた出雲王国、饒速日命を祖とする天神王国、神武天皇が建てた天満倭国(奴国)、奴国から倭国総帥の地位を引き継いだ卑弥呼の邪馬台国、邪馬台国を滅ぼした神功皇后の大和朝廷、さらには後継者不在の大和朝廷を引き継いだ越前の豪族継体天皇(けいたいてんのう)を包含した万世一系の天皇家に全国の八百万(やおよろず)の神々を統合する試みがなされたものと見られる。
東方キリスト教会における三位一体のシンボルと同じ手の形をした広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像には、こうした聖徳太子の願いが表されているのかも知れない。
中部大学の大山誠一(おおやませいいち)教授は、その著『聖徳太子の誕生』の中で、厩戸皇子はいたが、彼は後世になって言われたような仏教の大先生ではなかった、つまり偉大な仏教者としての聖徳太子はいなかったと指摘している。
プロテスタント系聖書解説者の久保有政氏によると、聖徳太子を仏教の大先生とする言い伝えや寺などは、後世に作り上げられたもので、聖徳太子とその一族は滅ぼされた。当時は豪族が力を持っており、特に仏教派の豪族、蘇我氏が朝廷で大きな権力を握っていた。蘇我氏は天皇家に取り入り、天皇家を凌ぐ権力を手に入れた。次代の天皇と目されていた穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)そして崇峻天皇は皆蘇我氏により暗殺された。
聖徳太子自身、母方は蘇我氏の血筋に属していたが、太子は、蘇我氏の権力を抑制しようとし、対立を深めた。聖徳太子は蘇我馬子が地盤とする奈良の飛鳥から20キロほど離れた斑鳩(いかるが)に居を移し、そこで政治を行おうとした。しかし聖徳太子の母の死の2ヶ月後、后(きさき)の膳菩岐岐美郎女(かしわでの ほききみのいらつめ)が死亡、翌日聖徳太子自身も49歳で亡くなった。当時聖徳太子は天皇に次ぐナンバーツーの座にあったが、その死後、殯(もがり)もせずに葬られた。
さらに馬子の息子蘇我入鹿(いるか)は643年、皇位継承の有力候補だった聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族25人を襲い、集団自決させ、聖徳太子の子孫を根絶やしにした。
四天王寺

久保氏によれば、蘇我氏はその一方で、聖徳太子を仏教の聖人として祭り上げた。歴史上非業の死を遂げた天皇、例えば崇徳天皇、安徳天皇、文徳天皇には皆『徳』の字が付けられており、聖徳太子にも『徳』の字をつけ、祟りを防ぐとともに、その徳を称え反対勢力の批判を躱したものと見られる。その象徴が大阪にある四天王寺で、この寺は聖徳太子が建立したとされる。しかし四天王寺が仏教の寺になったのは、聖徳太子の死の26年後だった。この時、仏教の守護神四天王像が収められた。聖徳太子の生前、そこは神社で、四天王寺の入り口の大鳥居は、元々神社だったことの名残である。四天王寺に隣接して鵲森宮(かささぎもりのみや)と玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)が存在するが、聖徳太子の生前これらは一体の広大な神社だった。
四箇院

また聖徳太子の時代には四天王寺に四箇院(しかいん)と言う4つのキリスト教的慈善施設、<1>敬殿院(学芸)、<2>療病院(クリニック)、<3>施薬院(薬局)、<4>悲田院(慈善施設)が併設されていた。ちなみに景教徒はシルクロードに沿った各地にこの種の4つの施設を設け、聖書の伝道を行っていた。
京都大学の池田栄(いけださかえ)教授によると、600年頃、聖徳太子には『マル・トマ』と言う景教徒が使えていた。『マル・トマ』はアラム語でトマス先生の意。マルは先生とか殿下という意味で、牛若丸の『丸』や柿本人麻呂の『麻呂』として、日本語の中で用いられるようになった。聖徳太子は自ら四箇院を作り、運営していたものと見られる。
篤く三宝を敬え

聖徳太子が発布した『十七条憲法』の第二条は『篤く三宝を敬え』と述べており、『日本書紀』は、「三宝とは仏・法・僧である。仏教はあらゆる生き物の最後のよりどころ、すべての国の究極のよりどころである」と説明している。しかし『先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)』には、「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神である。すなわち、すべての民のよりどころ、すべての国の究極のよりどころである」と説明している。
日本書紀の編纂に際して聖徳太子関連部分を担当したのは、『道慈(どうじ?-744)』と言う僧だった。大山誠一名誉教授はその著『聖徳太子の誕生』において、「道慈は他宗教を毛嫌いし、特に儒教嫌いだったため、三法を三宝に書き換えたものと見られる」と述べている。
宗源神道
聖徳太子は607年に『敬神の詔』を発しており、基本的には神道に立ち、儒教・仏教・神道の融和を図ったものと見られる。
『先代旧事本記』によると聖徳太子は中臣鎌足の父親中臣御食子(なかとみのみけこ)から『宗源神道(そうげんしんとう)』と言う神道を学んだ。『宗源神道』は「一の大神を伝える。これが宗源(もとつみもと)の道である」とされ、八百万(やおよろず)の神ではなく、一神教的神道であったと見られる。籠神社(このじんじゃ)の海部穀定(あまべよしさだ)宮司もその著『元初の神大和朝廷の始元』の中で、「日本書紀や古事記が成立した8世紀より前の日本の神道は、一神教的神道だった」と指摘している。

ちなみに秦氏が多く住んだ京都の太秦(うずまさ)に関して、早稲田大学の故伯好郎教授は「『うずまさ』はアラム語の『イェシュ・メシアッハ』から派生したもので、『イエス・メシア』を意味する」と述べている。秦氏は同地に広隆寺を建てたが、それは仏教寺院ではなく、キリスト教的神道の礼拝所で、東方キリスト教会における三位一体のシンボルと同じ手の形をしたくだんの弥勒像が安置されている、と久保氏は指摘する。
大化の改新と仏教
聖徳太子亡き後、645年に大化の改新を断行、隋や唐に倣った律令制度の導入に大きく舵を切った大和朝廷は、その時点で仏教を国策の基本に据える方針を決めたものと見られ、道慈の起用自体そうした方針に則ったものだったに違いない。加えて則天武后(627?-705)が仏教振興に力を注いだことから、唐王朝に歩調を合わせ、『十七条憲法』の第二条の『篤く三法を敬え』の三法『儒・仏・神』を三宝『仏・法・僧』に書き換えたのだろう。

日本古代史研究家東京女子大学の故平野邦雄(ひらのくにお1923-2014)名誉教授によると、朝鮮アカマツで彫られた広隆寺の弥勒菩薩像は、新羅から日本に伝来したものと見られる。日本書紀には、西暦603年に摂政の聖徳太子が彫像を受け取り、朝議に諮った上、秦氏の指導者秦河勝にあずけた。秦河勝はその後寺を建てて、彫像を安置したと記されている。これが公式に記録された広隆寺の起源である。しかし聖徳太子の時代の日本の仏教は、新羅のライバル百済の仏教によって完全に支配されていた。当時、蘇我氏と漢氏(あやし:百済移民)を後ろ盾にする日本国内の百済親派は、新羅に対抗し、百済を援助するため朝鮮半島の紛争に介入しようとしていた。新羅移民グループのリーダーの秦河勝と聖徳太子はこの計画に反対だったようだ。平野教授は、河勝の弥勒菩薩像の受け入れは、当時の政治状況を反映した象徴的な役割を果たした可能性があると指摘している。(ソース:morumon.org/japancultureuzumasa-02.htm)
聖徳太子の曾祖父で百済とも深いつながりを有した継体天皇は、百済と連合し、新羅と緊密な関係を有する北九州の豪族の頭領磐井(いわい)を滅ぼしたが、聖徳太子がその新羅から贈られた弥勒菩薩像を秦河勝に預けたのは、欽明天皇が百済から贈られた仏像を蘇我稲目に授けのに倣ったものと見られる。

弥勒信仰
『契約の神』や『太陽神』として小アジア、ギリシア、ローマでも広く信仰された古代ペルシアのミスラ神が弥勒菩薩の原型とされ、ユダヤ教においても、ミスラ神は、第七天に住み小ヤハウェと称される天使メタトロン(Metatron)の起源とされる。またローマ帝政時代に冬至の後で『太陽の復活』を祝った12月25日のミトラス教(Mithraism)最大の祭りは、クリスマスの原型になった。
仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに阿含経に記述が見える。仏教における弥勒信仰は、弥勒菩薩が居る兜率天に生まれ変わることを願う『上生信仰』と現世における弥勒菩薩の出現を信じ、準備する『下生信仰』に分かれる。後者は、弥勒の下生に合わせて現世を変革する反体制運動に結びつきやすく、中国の北魏時代には『大乗の乱』が、北宋・南宋・元・明・清の時代には『白蓮教の乱』が生じた(Wikipedia)。
久保有政氏によると、弥勒信仰はインドで4世紀頃誕生した信仰形態であり、当時インドでは景教の勢力が拡大していたと言う。
確かに、終末論的色彩の強い『下生信仰』の流行には景教が影響したものと見られる。

百済系漢氏と新羅系秦氏
漢氏は秦氏と並ぶ渡来系氏族で、『日本書紀』応神天皇20年(290年)9月の条に、「倭漢直(やまとのあやのあたひ)の祖の阿智使主(あちのおみ)、其の子の都加使主(つかのおみ)は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」と記されている。また『続日本紀』延暦4年(785年)6月の条には「阿智王(あちおみ)は朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人(しちしょうかんじん)と共に渡来した」述べ、漢氏の由来に関して、「神牛の導きで中国漢末の戦乱から逃れ朝鮮の帯方郡へ移住した」と説明されている。
一方、中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、紀元前231年に初めてユダヤ人が同市に到来し、ユダヤ人コミュニティーが形成されたこと、また明代(1368-1644AD)になって、ユダヤ人の指導者エズラ(Ezra), シメオン(Shimon), コーヘン(Cohen), ギルバート(Gilbert), レビ(Levy), ヨシュア(Joshua), ヨナタン(Jonathan)に、それぞれ艾、石、高、金、李、張、趙と言う中国式の姓が授けられたことが記されている。
京都府立大学や京都橘女子大学で名誉教授を務めた門脇禎二(かどわき ていじ1925-2007)博士は、「漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族で、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまったのだろう」と予想しており、新羅や百済、さらには高句麗を経由して様々な部族集団が大挙して日本列島に押し寄せていたものと見られる。また『七姓漢人』の内、開封碑文の中でユダヤ人に授けられた姓と共通する『李氏』や『高氏』はユダヤ系部族だった可能性がある。
『排他的一神教』の止揚
今日、カトリック教会やプロテスタント教会によって救世主に祭り上げられたイエスのイメージが伝えられているが、イエス自身の手になる文書は何一つ残っていない。十歳以上歳の差があった弟ヤコブの息子が十二使徒に含まれていたことから、当時、エッセネ派の集会所に出入りしていたとみられるイエスは、齢50を越えていたとみられ、その生涯に一編の文書も著さなかったなどと言うことはあり得ない。

さて、カナンの地を目前にして死んだモーセは、臨終に際して書き残した『申命記』の中で、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申6:4-5)。」と述べている。つまり多くの神が存在するが、イスラエル人はただ一人の神を信じなければならないというのである。彼は『唯一絶対の神』を想定していた訳ではない。テルアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授はこれを『排他的一神教』と評した。キリスト教も当初は『排他的一神教』を引き継いだが、『神ヤハウェ』と『子成るイエス』そして『聖霊』の『三位一体』の概念が形成される過程で唯一絶対の神を想定するようになったものと見られる。
他方、東方に向かいインドの仏教や中国の儒教あるいは道教に接した景教徒たちは、アブラハムの一族がカナンの土着の一神教に同化したように、仏教、儒教、道教と共存する新たな信仰形態を創造したようだ。秦氏が日本全国に展開した神社群はその精華と言える。ユダヤ民族は元々、アブラハム、イサク、ヤコブ等、十二乃至十四の部族の異なる始祖神を氏神として祭っていたが、モーセは単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合に再編し、農耕民の都市国家を転覆する一大戦略を建てた。モーセの死後、後継者ヨシュアはこの計画を実行に移し、古代イスラエル王国の基礎を築いた。聖徳太子は、この戦略に倣って秦氏の協力の下に、日本全国の八百万の氏神を共通の始祖神天照大御神の御稜威(みいつ)に帰せしめることを通じ万世一系の天皇制の構築を図った。とは言え、エジプトの聖牛信仰やカナン土着の偶像崇拝を包摂した北イスラエル王国のユダヤ教は、それより遙か以前に天孫族により日本にもたらされていたのかも知れない。
三一妙身

景教碑は冒頭に「さて、永遠の静寂の中に、先ず無元(はじめのない)の始源(しげん)があった、それは漆黒の霊虚(れいきょ)として存在したが、その後妙有(みょうう)が生じた。始玄(しげん)の創造神、諸聖を超えた、唯我独尊(ゆいがどくそん)、『三一妙身(さんいちみょうしん)』の真(まこと)の主(しゅ)アッツラーフ(阿羅訶歟)は、十字を観照(かんしょう)して四方を定め、始元を鼓して風を起こし二気(陰陽)を生じた。」と述べ、『三位一体』を『三一妙身』と表現している。
以上のように≪旧約聖書の創世記≫を概説した上で、大秦国(シリア)に救世主が誕生し、『三一妙身』の新しい教えを説き終えた後、ある日の午後に昇天し、27巻の≪新約聖書≫が遺されたこと、大秦国の高僧アロペンが貞観九年(西暦635年)に、『三一妙身』の教義と『水の洗礼』・『十字の表象』・『東方礼拝』・『断食』等を宗旨とする景教と名付けられたこの教えを携え、長安に至り唐の太宗皇帝に聖書を献上、布教と寺院の建設を許されたことなどが記されている。
イエスの双子の兄弟と渾名されたトマスが東方世界に伝道した時期は、インドの大乗仏教やペルシアのゾロアスター教が成立した年代と重なっており、見たところ景教碑にはそうした時代背景が色濃く反映されている。
東方キリスト教会は、『三位一体』を『至誠三者』とも表現するが、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、右手の親指そして中指と薬指で円相を表し、人差し指と小指を立て、『太虚のように円かで欠けるところも余るところもない至道』の現成を目指した聖徳太子やイエスの願を表しているように見える。

禅宗の始祖達磨から数えて三代目の僧璨鑑智(そうさんかんち)禅師(?-606)は、その著『信心銘』において、「至道(至極の道、究極の真理)は、太虚のように円(まど)かで、欠けるところも余るところもない」と説いている。最初に悟りの表象として『円相』を描いたのは、六祖慧能禅師の法嗣南陽慧忠禅師とされ、その後、禅宗、取り分け潙仰宗では、示教に際して円相を多用するようになったとされる。
ギリシア語魔術パピルスに描かれた自分の尾を噛む蛇は、『初めと終わりは一つ』と言う思想を象徴するグノーシス主義の代表的図像の一つとされ、蛇の身体から成る円の中には、ギリシア語で『万物は一つ』と記されている。ヨハネ福音書の『初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神そのものであった。彼(イエス)は初めから神とともにあった。』(ヨハネ1:1-2)と言う書き出しやヨハネの黙示録の『わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。(黙示22:13)』と言うくだりに明確に表現されているこの思想は、トマスにより東方に伝えられた後、禅宗に引き継がれたようだ。イスラム教の始祖ムハンマドも当時中東や中央アジアに広く流布していた景教の影響を受けたであろうことは想像に難くない。
また仮に広隆寺の弥勒菩薩像が新羅から伝来したとすれば、当時新羅には弥勒菩薩(Mireuk-posal)を信仰する貴族の子弟から成る『花郎(Hwa-rang)』と言う騎士団が活動しており、ここにもトマスの足跡が窺える。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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