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書評:聖霊のバプテスマ(アラム語ルーツVII)

 イエスが言った、「人々はきっと、私がこの世に平和を投げ込むために来たと思うであろう。そして彼らは、私が地上に分裂、火、刀、戦争を投げ込むために来たことを知らない。というのは、一家の内に五人いるであろうが、三人は二人に、二人は三人に、父は子に、子は父に、対立するであろうから。そして彼らは一人で立つであろう。」(トマス16)
日本語版『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏によると、トマス福音書第16節は、最後の一句を除けば、マタイ福音書(10:34-36)及びルカ福音書(12:51-53)の平行記事とほぼ等しい。しかしトマス福音書16節には、女性間の分裂(娘と母、嫁と姑)の叙述がない。トマス福音書全体のテーマは、地上の『父』に対する『子=息子=男性』の自立であり(トマス23/49)、『女』が天国に入るためには『男』にならなければならないからである。そして文末の一句は確実にトマスによる加筆である。Q語録においては、イエスを信じ、彼に従うことによって家庭内に起こる分裂が描かれているのに対し、トマスにあっては、それを超えて、取り分け『父』に対して『子』がイエスと共に『一人』になる過程としての分裂が強調されている。第4節で確認されているように、『一人』ないし『単独者』であることは、トマスにとって原初的統合の回復であった。
三一妙身と弥勒菩薩半跏思惟像

ところで、東方キリスト教会の勢力圏には、右手の薬指と親指で輪を作り、残りの三本の指を立てたポーズのイエスの肖像が多数残されている。この種の肖像は、西方キリスト教会の勢力圏には見られない。おそらく東方キリスト教会の『三一妙身』の教義を象徴するイコンと見られる。≪トマス福音書≫16節の「一家の内に五人いるであろうが、三人は二人に、二人は三人に、父は子に、子は父に、対立するであろうから。」と言う言葉も、この肖像に関係しているのかも知れない。
『三一妙身』については、『大秦景教流行中国碑』の冒頭に「さて、永遠の静寂の中に、先ず無元(はじめのない)の始源(しげん)があった、それは漆黒の霊虚(れいきょ)として存在したが、その後妙有(みょうう)が生じた。総玄(そうげん:真っ暗闇の中)に抠(こう:ほじくる)して造化をなす、妙衆聖(みょうしゅうせい:至高多聖)の尊者、『三一妙身(さんいちみょうしん)』の真(まこと)の主(しゅ)アッツラーフ(阿羅訶歟)は、十字を観照(かんしょう)して四方を定め、始元を鼓して風を起こし二気(陰陽)を生じた」と記され、『三一妙身』こそ『アッツラーフ=ヤハウェ』の実体と説いている。つまり景教徒の守護神はアラーであり、イスラム教徒もこれにならったものと見られる。
では『三』とは何か。西方キリスト教会における『三位一体』の教義に照らして、父なる『神』、子なる『イエス』、そして『聖霊』とするのが一般的解釈だが、中国の春秋時代(BC770-BC500)の思想家老子は、その著≪道徳経(単に『老子』とも言う)≫の中で、「万物は『陰』と『陽』から成るが、『道』は『陰』にも『陽』にも属さない『炁(け/き)』であり、『炁』とは、陰陽未分の混沌、原初の宇宙のようなもの」と説明している。≪トマス福音書≫が説く『原初的統合の回復』や『大秦景教流行中国碑』の『三一妙身』の教義を彷彿させる。ちなみに中国語における『炁』と『気』の発音は同じで、ほぼ同様の意味に用いられるが、前者は哲学用語とされる。英語にすれば、『ホーリー・スピリット(聖霊)』と『スピリット(霊)』に相当する。
『一』について≪道徳経≫は「万物は一を得て以って生じ、侯王(こうおう)は一を得て以って天下の貞(てい)と為(な)る。そのこれを致すは一なり。(39章)」、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)以(も)って和を為す。(42章)」と述べており、魏晋南北朝時代の玄学(げんがく)の大家王弼(おうひつ226-249)は、「『一』は数の始めにして物の極みなり。これを謂って『妙有』と為す者、『有』と言わんと欲して、その形を見ず、則ち有に非ず、故にこれを『妙』と謂う。それを『無』と言わんと欲するに、物はこれに由って以て生ず、則ち無に非ず、故にこれを『有』と謂うなり。これ乃ち無の中の有、これを『妙有』と謂うなり」と説明している。つまり、『妙有』とは、数の始めであり、物が極まるところの『一』であり、『有』でもなく『無』でもなく、『無』の中にも『有』の中にも実在するところものと言うのである。ちなみに玄学とは、三玄の書と称される『易経』『老子』『荘子』を解釈する魏晋南北朝時代に流行した学問である。
また、羅什三蔵(らじゅうさんぞう)と称される鳩摩羅什(344-413)の三千人の弟子の中で『解空第一』と称された僧肇(そうじょう384-414)は『肇論--涅槃無名論第四』の中で、「玄道は妙悟にあり。妙悟は即真にあり。即真なれば即ち有無斉しく観ゆ。斉しく観れば即ち彼れと己れと二なし。ゆえに天地と我と同根。万物と我と一体なり。(真の道は悟りそのものの中に存在する。悟りとは真理に直結し、真理と一体になることである。絶対の真理と一体になるなら相対的な有無は最早存在しない。有無が存在しないなら自他は一つになり、天地と我と同根、万物と我と一体となる。)」と説いている。
『三一妙身』の教義には、トマスがインドや中国に伝道した際に得た体験が反映されており、仏教や道教の影響が色濃く感じられる。またこの種の影響は双方向のもので、当時インドで興隆していた大乗仏教諸派やその後中国に台頭した天台・華厳哲学もトマスの伝えたグノーシス的キリスト教から多くの刺激を受けたものと見られる。たとえば、「仏は永遠不滅の『理』の化身としての『法身』と、現世に出現した有限な歴史的存在としての『応身(色身)』、そして無限性(理)と有限性(事)を兼備した『報身』と言う三つの側面を備えている」と言う『仏の三身説』は、その典型と言える。ちなみに、勅命により出家し華厳宗第三祖に就任、則天武后の宮廷で華厳哲学を講じた法蔵(643–712)は、アラム語圏に属する西域康国出身のソグディアナ人だった。
西暦603年に新羅から日本に贈られたとされる広隆寺の弥勒菩薩像の右手もこの指の形をとっている。当時朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が鼎立し、それぞれ日本との関係強化に努めていた。神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)に率いられる北九州の豪族は、新羅王国と血縁を有したらしいが、応神天皇以降、大和朝廷は百済よりの外交姿勢をとって来た。新羅の侵攻を受けた百済から救援を求められた継体天皇が、朝鮮に遠征軍を派遣しようとした際、北九州筑紫の豪族磐井(いわい)が新羅と結んで反乱を起こした。聖徳太子の時代も蘇我氏を初めとする百済系の豪族が朝鮮出兵を準備していたため、新羅は、神武天皇時代に立ち返り、大和朝廷との旧交を回復する狙いから、三一妙身を象徴する弥勒菩薩像を日本に送り届けたのかも知れない。当時新羅では弥勒菩薩を信仰する貴族の子弟から成る『花郎(Hwa-rang)』と言う騎士団が活動していた。新羅の弥勒信仰には、天皇家や秦氏が奉じる原始キリスト教の『三一妙身』教義が取り入れられていたものと見られる。
日本語に紛れ込んだヘブル遺伝子

イスラエル日本学会名誉会長も務めるヘブライ大学のベン=アミー・シロニー(Ben-Ami Shillony)名誉教授は、日本語とヘブライ語には、『発音』と『意味』が類似する語彙が多数存在すると指摘する。
以下の例はほんの一部に過ぎず、数え上げれば500は下らないと言う。一見して日常生活の様々な領域をカバーしていることから、恐らく縄文時代にまで遡る太古の昔から大量のユダヤ人が、長期にわたり継続して日本列島を訪れ、天皇家のみならず日本の先住民と大衆レベルの交流をしていた証左と言えそうだ。
中国後漢の思想家王充は、その著≪論衡≫に、「周の成王(BC1042-BC1021)の時、天下太平、越裳(えっしょう)は白雉(はくち)を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。」と記している。
縄文人が薬草をはるばる陝西省西安市の西に位置した周の都鎬京(こうけい)まで届けるなどと言うことはあり得ないため、この頃既にアラム語を話す遊牧民が日本列島を拠点に、薬草等の物産を中国で商っていたのかも知れない。だとすれば、日本とユダヤのえにしは、モーセの後継者ヨシュアがヨルダン川西岸を制圧したものの、まだイスラエル王国が誕生していない時代にまでさかのぼりそうだ。
もしそうなら≪漢書:地理志燕地条≫に、「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子(BC552-BC479)、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪(現在の平壌付近)海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。」とあり、また≪漢書:地理志呉地条≫に、「会稽(かいけい:浙江省紹興市付近)海外に、東鯷人(とうていひと)あり、分かれて二十余国を為す。また、夷州(いしゅう)および澶州(せんしゅう)あり。伝へ言ふ、『秦の始皇、方士徐福を遣はし、童男女数千人を将ゐて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州に止まる』と。世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に遭ひて流移し澶州に至る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。」と記されているのも頷けそうだ。
つまりこうしたアラム語を話す遊牧民は、その後分裂し、遂に滅亡したユダヤの難民を続々日本列島に呼び入れたのみならず、中国、モンゴル、朝鮮の難民の呼び水も務め、日本列島の縄文時代から弥生時代への移行を促進したものと見られる。

エフライムとマナセが皇室の朝鮮ルーツを媒介

日本書紀と古事記の記述は、皇室が新羅と百済双方と血縁を有することを暗示しているが、イスラエルの失われた十部族の中のエフライム族とマナセ族がどうやらその媒介を務めたようだ。
最初に降臨した饒速日尊が近畿地方に王権を樹立した際、天遜族の証しとして『ヤーウェの民』を意味するアラム語『ヤー・ウマト』にちなんで自らを大和王権と称したことから縄文人を含む日本列島居住者がヤマト族を自称するようになり、その後誕生した邪馬台国の国号にもなった。
北九州の筑紫地方を地盤とした朝鮮系豪族(磐井?)の東征将軍(神武天皇)は、近畿地方を制圧した際、大和王権の名称を引き継ぐとともに、自らを『サマリヤの王、ヤハウェのエフライム族の高尚な創設者』を意味する神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと:カム・ヤマト・エフライム・ペコ・シュメロン・マクト)と称した。このことから、饒速日尊はエフライム系ユダヤ人の協力の下に大和王権を樹立し、神武天皇もその伝統を引き継いだことが窺える。
一方、神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)に率いられる北九州の豪族は、その後朝鮮半島に新羅を建国したらしい。しかし邪馬台国も大和王権もしばしば新羅に出兵し、百済よりの外交姿勢を採った。応神天皇の時代にも二度出兵し、新羅の妨害を退け、秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて日本に帰化するのを助けた。イスラエルの調査機関アミシャーブによれば、秦氏はマナセ族の末裔らしい。仮に『本朝皇胤紹運録』の記述が正しいとすれば、継体天皇直系の現皇室もマナセ族の末裔と言うことになりそうだ。
トマスの北京伝道と倭国のえにし

さて日本キリスト教団池袋キリスト教会初代牧師を務めたプロテスタント系聖書解説者の久保有政氏(1955-)によると、トマスはイエスが昇天した2年後、したがって西暦35年頃、アッシリアからインドに赴いた後、チベットを経由して中国に伝道、西暦62年に現在の北京に至り、教会(会衆)も組織したらしい。それにしても、トマスは何故後漢の帝都洛陽や長安ではなく、薊県(けいけん)と呼ばれた北辺の地方都市に赴いたのだろうか。パウロにしろヨハネにしろ、当時の使徒達は皆、ユダヤ人コミュニティーがすでに存在した地域に伝道しており、恐らく当時の北京にもユダヤ人コミュニティーが存在していたものと見られる。
そういえば、中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、秦の王賁(おうほん)将軍が魏の王都大梁(現在の河南省開封)を陥落させた紀元前231年に同市に最初のユダヤ人コミュニティーが形成されたと記されていると言う。そのほぼ十年後の紀元前226年に王賁将軍は燕の王都薊城(北京)を陥落させ、紀元前222年に燕を滅した。
秦の母体と見られる羌族(きょうぞく)は文字通り羌(ひつじ)を放牧する遊牧民で、イスラエルの失われた十部族の帰還援助組織アミシャーブによれば、典型的なマナセの末裔という。
このため王賁将軍には直属のユダヤ人傭兵部隊が存在し、同将軍が転戦した地域にはこうした傭兵部隊の家族のコミュニティーが形成されたのではなかろうか。
ちなみに春秋戦国時代から秦漢時代に書かれた中国最古の地理書『山海経』には「蓋国は燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」と記されている。これが中国の書籍に『倭』が登場する最初の例とされる。どうやら春秋戦国時代から秦漢時代にかけて『倭』は『燕』の一部と見なされていたようだ。だとすれば、トマスが燕の古都薊城を訪れた当時、同地のユダヤ人コミュニティーは、饒速日尊がエフライムの協力の下に近畿地方に建てた大和国や、応神天皇の時代に日本に帰化したマナセ族の末裔の秦氏と密接な関係を保持していた可能性がありそうだ。
『十二部族』の怪

奇妙なことに、ヤコブ(別名イスラエル)の12人の息子の1人レビを始祖とし、モーセの出身部族でもあるレビ族が『イスラエルの十二部族』に含まれていない。
旧約聖書の民数記(1:47-54)やヨシュア記(4:1-4)によると、レビ族は祭祀を司る特別の任務を与えられたが、嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかったと言う。『嗣業を与えられなかった』とは、放牧地以外の領地を持たなかったことを意味するらしい。加えて、マナセとエフライム兄弟の父親ヨセフを始祖とするヨセフ族も存在する(啓7:8)。このため、合計すると十四部族になる。
想像するに当初はヤコブの十二人の息子たち、長男ルベン、次男シメオン、三男レビ、四男ユダ、五男ゼブルン、六男イッサカル、七男ダン、八男ガド、九男アシェル、十男ナフタリ、十一男ヨセフ、十二男ベニヤミン(創35:23-26)、をそれぞれ始祖とする部族で『十二部族』が構成されていたのだろう。ところが、ヨルダン川西岸に総攻撃を仕掛ける際に、東岸の先住民『マナセ族』と『エフライム族』が仲間に加えられたため、ややこしいことになり、つじつまを合わせるためヨセフがエジプトで二人の息子をもうけた話が旧約聖書に挿入され、モーセがシナイの荒れ野でイスラエルの民の人口調査を行った際には、『レビ族』と『ヨセフ族』が『マナセ族』と『エフライム族』に入れ替えられたものと見られる(民1:1-54)。
この時、『マナセ族』がヨルダン川西岸征圧作戦への参加に消極的だったのとは対照的に『エフライム族』は積極的を通り越し、総攻撃の先頭に立った。『エフライム族』は戦後処理でも主役を務め、一時は、レビ族、つまりモーセの一族を占領地の分配から完全に締め出し、一片の土地も配分しなかった。このことから遊牧民連合内部で、激烈な指導権争いが展開されたことが窺える。その実、『エフライム族』がヨルダン川西岸を征圧するために遊牧民連合を組織したのかも知れない。
だとすれば、イスラエルの十四部族の中でマナセ族とエフライム族だけが、チベット人や日本人、取り分け縄文人に特徴的な『Y染色体D』遺伝子を保持すると言うことも頷ける。最近の遺伝子学的考証によると、『Y染色体D』遺伝子を保持する人々は、チベットや日本列島のみならずアジア全土に広く分布していたようだ。つまり両部族(マナセ族とエフライム族)は、遺伝子的にヨセフを含むヤコブの十二人の息子の子孫とは異なる遊牧民であり、彼等の仲間は、中央アジアや極東にまで広く分布していた。このためユダヤ人共同体の東方世界への浸透に寄与したものと見られる。
いずれにしても彼等(マナセ族とエフライム族)は、アラム語を話す遊牧民によるヨルダン川西岸の征圧やイスラエル王国の建設に決定的な役割を演じただけでなく、中国初の帝国『秦』や大和朝廷の建国にも貢献したものと見られる。
『乙巳の変』の経緯
西暦628年、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御したことから、敏達天皇の孫の田村皇子(たむらのみこ)と聖徳太子の息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)が次期天皇の有力候補になった。大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、山背大兄皇子を推す叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ:蘇我稲目の子)を滅ぼし、田村皇子を舒明天皇(じょめいてんのう)として即位させた。西暦641年、舒明天皇が崩御すると、皇后の宝皇女(たからのおうじょ)が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として即位した。
父に代わって大臣となった蘇我入鹿は蘇我氏の血を引く従兄弟の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を次期天皇に擁立するため、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)を襲撃し、自殺させ、聖徳太子の一族を完全に滅ぼした。

大和朝廷の祭祀を司る中臣鎌足(なかとみのかまたり: 藤原氏の始祖)は、蘇我氏の専横を憎み、皇極天皇の同母弟の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ=孝徳天皇)や中大兄皇子と蘇我氏打倒計画を練り、蘇我一族の長老、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)も仲間に引き入れ、計画を実行に移した。
道化が参内した入鹿の帯剣を隠し、蘇我倉山田石川麻呂が表文を読む間に二人の刺客、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)が丸腰の入鹿を撃ち殺すはずだったが、怖じ気づいた刺客が現れないため、石川麻呂は震えが止まらず表文を読み上げることさえままならない状態に陥った。このため中大兄皇子自身が殿中に飛び込み一太刀浴びせると、入鹿は天皇の御座に叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と訴えた。すると中大兄皇子は「お前は皇族を滅ぼし、皇位を奪おうとした」と罪状を宣べた。皇極天皇が無言のまま殿中に退くと、二人の刺客も加わり、入鹿にとどめを刺した。古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰った。
中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固め、諸皇子、諸豪族もこれに従った。帰化人の漢直(あやのあたえ)一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まったが、古人大兄皇子が出家したと聞くと、旗印を失った蘇我家の軍衆はみな逃げ散った。このため蝦夷は舘に火をかけ自殺した。
ちなみに『蝦夷(えみし)』は東北地方の先住民族(毛人)の蔑称だが、『勇猛』の代名詞として、蘇我氏以外でも小野毛人(おののえみし)や佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、鴨蝦夷(かものえみし)らが『えみし』を名乗っている。また『蝦夷』が先住民を指す場合は『えみし』、東北地方を指す場合は『えぞ』と発音する。煎じ詰めれば、東北地方の先住民は縄文人の末裔と見られるが、神武東征以前の大和王国や出雲王国さらには邪馬台国の住人を含め、自らを大和民族と見なす現代人の大部分は弥生時代以降に渡来した非先住民の末裔と言うことになりそうだ。
白村江の敗戦と天智天皇

乙巳の変に伴い皇極天皇は退位し、代わって軽王子が孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位した。孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇が斉明天皇(さいめいてんのう)として重祚(じゅうそ)した。中大兄皇子は、この間太子として政治の実権を握り、内政改革の指揮をとるとともに、蝦夷征伐や朝鮮出兵を断行した。蝦夷征伐は一定の成果を上げたが、百済亡命政権の再興を目指した朝鮮出兵は、663年に白村江で唐と新羅の連合軍に大敗を喫し、失敗した。しかしその直後に遣唐使を派遣、唐との外交関係を修復した。667年4月17日近江大津宮(現在の大津市)に遷都し、668年2月20日になってようやく天智天皇(てんちてんのう)として即位した。したがって661年8月24日の斉明天皇の崩御後、6年余り天皇の座は空位のままだった。
神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)が新羅王の祖先とするなら、北九州の筑紫を拠点にした朝鮮系豪族は、天遜饒速日尊が立てた大和王朝を併合した後、朝鮮半島に新羅を建国したことになる。
恐らく兄の稲飯命は、本家の主として筑紫地方を引き続き支配、弟の神武天皇に大和地方に支店を設けさせ、その経営を委ねたのだろう。だから北九州拠点の豪族は、大和朝廷から半独立した形で朝鮮半島、取り分け新羅との密接な関係を維持し続けたようだ。対照的に、大和政権は、弓月の君の移住や神功皇后の三韓征伐等に際してたびたび新羅に侵攻し、百済よりの姿勢を示して来た。しかし、大和政権は、白村江の敗戦により、こうした外交姿勢の一大転換を強いられたものと見られる。
白村江の敗戦後、水城(みずき)、烽火(のろし)、防人(さきもり)を整備し国土防衛体制を強化、冠位(かんい)を十九階から二十六階に拡大する行政改革、日本最古の全国的な戸籍を作成し、公地公民制の基を築いた。また660年には漏刻(ろうこく)と言う水時計を作成、671年から大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始した。
壬申の乱

中大兄皇子は668年に天智天皇として即位した際、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)を太子に立てたが、671年に実子の大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣に任命、左大臣、右大臣と御史大夫(ぎょしたいふ=副丞相)を付けたことから、大海人皇子は、政権中枢から疎外された。その直後、病を得た天智天皇は、大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は出家し、吉野に退いた。天智天皇が崩御すると、大海人皇子は直ちに挙兵、連戦連勝し、大友皇子を自殺に追い込み、673年天武天皇(てんむてんのう)として即位した。
天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は、いずれも舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子で、両親を同じくする兄弟だった。天武天皇の皇后、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は後に持統天皇(じとうてんのう)となった。天武天皇の治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武持統朝と呼ばれ、日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代とされる。
天皇親政

天武天皇は、皇族を要職につけ、自らは皇族にも掣肘されない、専制君主として君臨した。八色の姓(やくさのかばね)で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進め、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を制定し、新都藤原京を造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じた。これらの事業は天武天皇の死後に完成した。
大海人皇子は額田王(ぬかたのおおきみ)を妻として十市皇女(とおちのひめみこ)を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。その一方で大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。この三角関係が兄弟不和の原因になったとする説があるが、万葉集に記載された大海人皇子と額田王が交わした歌には、二人がこうした三角関係を楽しんでいる風情がうかがえる。
天智天皇が蒲生野(がもうの)に遊猟(ゆうりょう)に出かけた際、額田王が皇太子の大海人皇子に「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る(紫草の生えた野をあなたがあっちへ行きこっちへ行きして私に袖を振るのを、標野の見張りは見ないでしょうか、きっと見てしまうでしょう。)」と言う一首を送ると、大海人皇子は「むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも(紫草のように美しく映えているあなたのことをいやだと思うなら、人妻なのにどうして恋い慕いましょうか)」と返した。
天武天皇は、道教に深い造詣を有し、神道を整備、仏教を保護、国家仏教の創設を図った。そもそも天照大神という神を造り出したのは天武天皇という説もある。それによると、もともと高御産巣日(タカミムスヒ)が皇祖神であったが、天武天皇が伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体して天照大神とし、高御産巣日と取り替えたと言う。
中央集権国家の形成と自壊

それまでの『大王(おおきみ)』に替えて『天皇』と言う呼称を用い、『日本』と言う国号を最初に用いたのも天武天皇と言われる。天皇は、それまでは、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)や壹與(いよ)同様、大和地方の氏族連合の長、王中の王として大王(おおきみ)と呼ばれていた。しかし『大化の改新』により、氏族制度は解体され、この後、土地も民衆も、『公地公民制』の下、天皇の所有に帰することになった。王宮と神殿は分離され、平城京や平安京のような恒久的都城が建設された。こうして天皇を頂点に頂き、常備軍も保持する中央集権的古代国家が誕生する基礎が築かれた。公地公民制や常備軍は長続きしなかったが、土地と国民を氏族の枠から解き放ち、次の封建社会に移行する上で重要な役割を果たした。
天武天皇は、681年律令制定を命じる詔を発し、天武没後の689年(持統3年)に飛鳥浄御原令が制定された。しかしその名称通り令のみで律が備わっていなかった。また日本の国情に適さない部分が多かった。このため改変作業が続けられ、奈良時代に入って701年(大宝元年)に大宝律令が完成した。
例えば、同法の下、天皇の皇后(こうごう)は1人、妃(ひ)は二人、夫人(ふじん)は三人、嬪(ひん)は四人と定められていた。この他に、宮中に奉仕する女性職員を『宮人(きゅうじん)』と呼んだ。皇后の出自に規定はないが、妃については『四品以上の内親王』と規定されていた。天武天皇が推進した『天皇親政』の原則に基づくなら、皇后も原則として内親王から選定されたものと見られる。品位(ほんい)は、親王と内親王に与えられる位で、内親王とは、天皇の娘(皇女)と天皇の姉妹を意味した。したがって近親結婚を助長する結果を招いた。しかし、第四十五代聖武天皇(しょうむてんのう在位724-749)が、 藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘の光明子(こうみょうし)を皇后に立てた後、皇族以外からも皇后が立てられるようになった。藤原氏の全盛時代には、二人の皇后が並立する事例も生じ、この場合先に入った方が皇后、後から入った方が中宮と呼ばれた。中宮はももともと皇后の住まいを意味した。平安時代に入ると妃、夫人、嬪に代わって、女御(にょうご)や更衣(こうい)の呼称が用いられるようになった。
第五十代桓武天皇(かんむてんのう在位781-806)の時代に平安京が完成、数度の遠征により東北地方の蝦夷も帰順し、大和政権の威勢は絶頂に達したが、平安京の造成や度重なる軍事遠征が百姓の負担を高めているとの藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の建言を入れ、いずれも中断したため、朝廷の軍事力は失われ、三世一身法や墾田永年私財法の導入により公地公民制も骨抜きになった。結局、藤原氏等の天皇家の外戚が再び朝廷の権力を握り、ほとんど無政府状態に陥った地方には平氏や源氏等の武士勢力が台頭した。
桓武天皇の出自

桓武天皇は、白壁王(しらかべおう=光仁天皇)と百済系渡来人和氏(やまとうじ)出身の宮人(後に夫人)高野新笠(たかのにいがさ)の間に生まれた第一王子だったが、母の身分が低かったため、当初は皇族ではなく官僚としての道を歩み、大学頭や侍従、四品中務卿にまで出世したものの、立太子は予想されていなかった。しかし藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王(おさべしんのう)が廃されたことから、皇太子に抜擢された。その影には式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)による擁立運動があったとされる。
桓武天皇は即位後、百川の兄の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)の娘、藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)を皇后とし、彼女との間に安殿親王(あてのみこ=平城天皇)と神野親王(かみのみこ=嵯峨天皇)を、また、百川の娘で良継の外孫でもあった夫人の藤原旅子(ふじわらのたびこ)との間には大伴親王(おおとものみこ=淳和天皇)を儲けた。このため、桓武天皇の下で藤原氏全盛の基が築かれたと言える。
桓武天皇は即位後、母の新笠(にいがさ)を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂(やまとのいえまろ)も異例の出世を遂げた。和氏は百済武寧王(ムリョンワン)の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(トンミョンワン=東明王)は河伯(かはく:黄河の神)の娘が日光により身籠ったものであるとされ、これにちなんで新笠に『天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのこひめのみこと)』の諡号(しごう)が贈られた。
日朝は一衣帯水の隣国:平成天皇

2001年12月18日、天皇誕生日前の恒例の記者会見の席上、平成天皇は翌年に予定されていたサッカー・ワールドカップの日韓共催に触れ、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」と語られた。
この発言は、韓国で大きな反響を呼び、「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」、「日王が秘められた事実を暴露」などと報道されたほか、金大中当時大統領も翌2002年の年頭記者会見の席で歓迎の意を表明した。
平成天皇は、『平城遷都1300年記念祝典』でも百済とのゆかりについて同様の趣旨の発言をされた。<以下次号>

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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