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『ユダヤ教の誕生と東方伝播(キリスト教の起源)』スライドショー第5話:公案の起源

<スライドショー第5話:公案の起源>

 イエスが言った、「御使いたちと予言者たちがあなたがたのもとに来る。そしてかれらは、あなたがたに、あなたがたに属するものを与えるであろう。そしてあなたがたもまた彼らに、あなたがたの手中にあるものを与える。そして、あなたがたは、自らに、どの日に、彼らが来て、彼らのものを受けるかを言う」。(トマス福音書88節)
教会運動と東西キリスト教

テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、西暦1世紀のユダヤの国内人口が80万人前後であったのに対して、世界のユダヤ人口は400万人にのぼり、未だ割礼を受けない異邦人のユダヤ教徒予備軍はさらに膨大な数にのぼったものと見られる。取り分けローマにはこの種の異邦人ユダヤ教徒の強固なコミュニティーが存在した。
このためパウロやペテロやヨハネは西方に向かい、ギリシアやローマに布教したが、トマスやバルトロマイ(ナタナエル)そしてタダイ(トマスの弟)は、イエスの死の直後、直ちにアッシリア地方やインド、そして中国にまで布教に赴いたとされる。
タダイは、兄トマスに指示されアッシリアのエデッサ(ウルファ)やパルティアに伝道した。エデッサはアッシリア東方教会の中心地で、2世紀のコインには十字架を配した王冠を帯したエデッサ王の肖像が描かれている。西暦95年にはアッシリアの19都市に司教が存在し、西暦161年にはメディア、ペルシア、バクトリアにキリスト教が広まった。
東方キリスト教会の誕生

アラム語は、アッシリアやバビロニアを初めとするメソポタミア地域の遊牧民の言語の総称で、ユダ王国ではそのカナン方言のヘブライ語が用いられていた。
イエスは生前アラム語を常用していたことが知られているが、東方、取り分けアッシリア地方にはアラム語を用いる生粋のユダヤ人コミュニティーが存在した。このため東方における布教は、西方以上の成果をあげ、ローマがキリスト教を国教とする以前にエデッサやアルメニアにキリスト教国が誕生、東方諸教会が成立した。
日本キリスト教団池袋キリスト教会初代牧師を務めたプロテスタント系聖書解説者の久保有政氏によると、西暦800年から14世紀頃までは、東洋のクリスチャンの数が西洋のクリスチャンの数を遙かに上回っていた。
ユダヤ教と景教の中国伝来

西暦129-140年にタタール人がキリスト教に集団改宗した頃、中国にネストリウス派キリスト教が伝えられており、その後興隆した禅宗がその影響を受けたことは想像に難くない。
アッシリア東方教会(シリア教会)は中国に伝えられた後、景教と称された。イエズス会が17世紀に西安で発見した『大秦景教流行中国碑』には、西暦635年にオロペン(Alopen阿羅本:アブラハムの意)が21人の景教徒を率いて中国に赴き唐の太宗皇帝に拝謁、漢訳聖書を献上、中国における布教を正式に許可されたことが記されている。しかしこれは公式の記録で、それ以前から景教徒は中国で布教していたものと見られる。
中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、紀元前231年に初めてユダヤ人が同市に到来し、ユダヤ人コミュニティーが形成されたと記されている。この年(紀元前231年)、秦の政王(始皇帝)の将軍王賁(おうほん)が、魏の王都大梁(現在の河南省開封)を攻略、魏を滅した。
景教の日本伝来

平安時代初期の815年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせん しょうじろく)』によれば、神武天皇から数えて第14代の仲哀天皇の第8年(西暦197年)にキリスト教国だった弓月(ゆづき)の王功満(こうまん)が家来とともに来日した。西暦720年に編纂された『日本書紀』には「是の歳、弓月君百済より来帰す」と記されている。その後、第15代応神天皇の時代に功満王の子が1万8670人の民を率いて渡来したと追記されている。これが景教と呼ばれるキリスト教徒の秦氏(はたし)が大挙日本に渡来した起源とみられる。
室町初期に編纂された『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』にると、継体天皇の子の安閑天皇には豊彦王(とよひこのみこ)と言う皇子がおり、豊彦王は秦氏の族長で聖徳太子の側近だった秦河勝と同一人物としている。だとすれば、継体天皇もまた、秦の始皇帝の末裔とされる秦氏一族だったことになる。
トマス福音書の終末論

さて、《トマス福音書》に登場するイエスは西方キリスト教会のそれとは異なる『終末論』を説いている。
 彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に死人の安息が入り来たり、どの日に新しい世が来るのでしょう」。彼が彼らに言った、「あなた方が待っているものはすでに来た。しかし、あなた方はそれを知らない」。(トマス51)
日本語版『トマスによる福音書』の著者荒井献氏によると、『あなた方が待っているもの』とは『新しい世』ではなく、『安息』である。そしてそれが『すでに来た』と言うのは『御国』つまり『本来的自己の回復は、自己を知った者の中にすでに実現されている』と言うことである。にも関わらず『あなた方はそれを知らない」とイエスは弟子たちを批判している。
 弟子たちがイエスに言った、「私たちの終わりがどうなるかを、私たちに言って下さい。」イエスが言った、「あなた方は一体終わりを求めるために、初めを見出したのか。なぜなら初めのあるところに、そこに終わりがあるであろうから。初めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないであろう。」(トマス18)
トマスは、「初めのあるところに終わりがある。初めに立つものは、その時点で既に終わりを知り、永遠の命を得ることができる。人生の初めをその終わりに結びつけてスタートするものは、この世にいて既に神の国(至高)に遊んでいるのだ」と、イエスの言葉を借りて、正統派キリスト教会の終末論や復活信仰を批判している。
ぶどう園の譬え

 彼が言った、「ある良い人がぶどう園を持っていた。彼はそれを農夫たちに与えた。彼らがそれを耕して、それから収穫を得るためである。彼は僕を送った。ぶどう園の収穫を出させるためである。彼らは僕を捕まえて袋だたきにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰ってそれを主人に言った。主人は言った、『たぶん彼らは彼を知らなかったのだ。』主人は他の僕を送った。農夫たちは彼も袋だたきにした。そこで主人は自分の子を送った。彼は言った、『たぶん彼らは私の子を敬ってくれるだろう』。ところが農夫たちは、彼がぶどう園の相続人であることを知っていたので、彼を捕まえて殺した。耳あるものは聞くがよい」。(トマス65節)
イエスが言った、「家造りらの捨てた石を私に示しなさい。それは隅の頭石である」。(トマス66節)
荒井献氏によると、以上のトマス福音書の譬えはその細部において共観福音書とかなりの点で異なっている。
荒井氏によると、『ある良い人』は『至高者』を意味し、『ぶどう園』は『既に耕された土地』であり、『収穫』は『本来的自己』を、また『農夫たち』は『非本来的自己』を意味する。農夫たちが僕を迫害したのは、『遣わされた者』に対する『無知』によるもので、主人が最後に派遣した『自分の子』とは『イエス』である。
『彼がぶどう園の相続人であることを知っていたので』彼を『殺した』と言うのは、一見、迫害の動機となる『無知』に矛盾しているように見えるが、『相続人であることを知っていたので』は外面上の事柄であり、その本質は『知らなかった』のである。
『トマス福音書』における『イエスの苦しみと死』の意味は、他のグノーシス福音書同様、『収穫(本来の自己)』を得るための苦難なのであり、殺されたのはイエスの身代わりではない。それでも『トマス福音書』は『イエスの死からの復活』を認めていない。マルコ、マタイ、ルカ福音書は、何れもギリシア語版詩編(21/23節)の『家造りらの捨てた石が隅の頭石になった』をそのまま引用し、『なった』として、殺されたイエスの復活を示唆しているが、『トマス福音書』では『それは隅の頭石である』とし、『トマス福音書』第11節の「真の『生ける者』はたとえ肉体的に殺されても死なないであろう(トマス11)」を再確認している。つまり、『イエスは初めから生けるもの』であり、イエスに死は存在しない。『ピリポ福音書』はこの点について「『主は先ず死んでそれから蘇った』と言うものは間違っている。何故なら彼は先ず復活し、それから死んだからである。もしある者が先ず復活を得ないなら、彼は死なないであろう(ピリポ21)。」と説いている。
聖霊のバプテスマ

《トマス福音書》のこうした内容は、禅宗の公案録を彷彿させる。また臨済宗の師家が学人与える修行の課題を『公案(裁判案件)』と言うのも、景教が説く『終わりの日=最後の審判』の教えの影響と見られる。
≪ヨハネ福音書≫のイエスは、第15章26節において『わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう』と説いているが、この『助け主』のギリシア語パラクレートス(パラクリトス:‘ο Παρακλητος)の訳語として、欽定訳聖書(KJV)は『Comforter(慰安者)』、新国際版聖書(NIV)は『Counselor(相談相手)』、ニュー・リビング訳聖書(NLT)は『Advocate(唱道者)』を用いている。訳者の苦労のほどが窺える。
ヨハネ福音書の著者がここで、参照したQ資料の原文は、トマス福音書88節の以下の記述と見られる。「イエスが言った、『御使いたちと予言者たちがあなたがたのもとに来る。そしてかれらは、あなたがたに、あなたがたに属するものを与えるであろう。そしてあなたがたもまた彼らに、あなたがたの手中にあるものを与える。そして、あなたがたは、自らに、どの日に、彼らが来て、彼らのものを受けるかを言う(トマス88)。』」
つまり真理の御霊があなた方に施すバプテスマは、本来あなた方のものをあなた方に与えるのであり、バプテスマをいつ受けるかもあなた方自身にかかっていると言うのである。聖霊のバプテスマとは、太初において神と一体であった自己に目覚めることに他ならないのだから。
看話と黙照

今日、日本の禅宗は、おおむね『看話(かんわ)』を主体とする臨済宗と『黙照(もくしょう)』を主体とする曹洞宗の二派に分かれるが、ある日、一人の僧が風穴和尚に「語にしろ黙にしろ、実在の半面に過ぎない。全体を捉えるにはどうしたらよいか」と尋ねた。すると風穴和尚は「長(とこしな)えに憶(おも)う江南三月の裏(うち)、鷓鴣(しゃこ)啼く處百花香し」と詩聖杜甫の一句を吟じて見せた(無門関24則)。
《無門関》と言う公案録を遺した南宋(1127-1279)の禅僧、無門慧開(むもんえかい1182-1260)禅師は、この公案(無門関二十四則)に「風穴の機は掣電(せいでん:電光)の如く、まっしぐらに路ちを突っ走るが、爭奈(いか)でか前人(杜甫)の舌頭に坐すのみで、一刀両断にしなかったのか。ここのところが分かれば、おのずから出身(再活現成)の路有らん。さあ、言語を離れた一句を示してみよ」と評唱し、「風穴はその気骨ある句を示すことなく、片言も語らず千聖不伝の理(ことわり)を表したが、諸君が、もし歩を進め、なにやら言葉を発するなら、自己の鈍根に恥じ入る他ないだろう」と頌を付けた。

イエスの証
人生の初めをその終わりに結びつけてそこから踏み出すものはこの世に居てすでに神の国に生きる者である』とは西洋のさる方がイエスの一生を評した言である。
イエスは三十四年の生涯の最後に只一度十字架にかかられたのではない。三十四年の生涯そのものが十字架であった。彼においては生涯を通じてすべての出来事がそのまま神のことばの成就であった。彼について定められた神の言葉が、彼の生涯の行為によって証しされた時、人類は千古不磨の経典を持ち得た。(昭和32年8月回光子)
回光運動

このように看破した東光書院創設者の村上徳太郎は、一敗地にまみれた廃墟の日本で、機関紙『回光』を創刊し、『回光返照の退歩』を標榜する回光運動を開始しました。
その実、人の一生は、始めから終わりまで、すべての行為、ひいては無為も、神のことばの成就であり、そのことを自覚したものは、『終わりの日』を待つまでもなく、また西方十万億土に旅する必要もなく、即身成仏できます。道元禅師はこの道理を『回光返照の退歩を学すべし』と述べ、『只管打坐』を勧められました。
Web/電子メール『Eko(回光)』の再刊
父、村上徳太郎により1946年11月に創刊された『回光』は、後継者の兄、村上武の死により2017年8月1日号をもって停刊しました。

私こと、村上厚(回光庵返照)は、このほどAmazon Webサービスを通じてWEBサイト『http://illuminatetheselves.net』を起ち上げたのを機に、不定期のWeb/電子メール『Eko(回光)』の再刊を思い立った次第です。2023年7月31日
【参照】
《無門関》第二十四則:離却語言

本則(ほんそく):
風穴和尚因みに僧問う、「語黙(ごもく)、離微(りみ)に渉(わた)り、如何にせば通じて不犯(ふはん)なる。」穴云く、「長えに憶う江南三月の裏、鷓鴣啼く處百花香し。」
離微:『離』とは諸相を離れ寂滅無余なる『法性(ほっしょう)』の『体』を表し、『微』とは微妙不可思議な『法性』の『用』を表す。
評唱(ひょうしょう):
無門曰く、「風穴、機掣電(せいでん)の如く、路を得て便ち行く。爭奈(いかん)せん前人の舌頭に坐して不斷なることを。若し者裏(しゃり)に向って見得(けんとく)して親切ならば、自ら出身(しゅっしん)の路有らん。且く語言三昧を離却(りきゃく)して、一句を道(い)い將(も)ち來れ。」
頌(じゅ):
頌に曰く、風骨の句を露わさず、未だ語らざるに先ず分付す。歩を進めて口喃喃(なんなん)、知んぬ君が大いに措(お)くこと罔(くら)きを。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か

ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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